【伝蔵荘日誌】

2007年11月20日: 東京裁判と戦後責任

 しばらく前に朝倉君から薦められた「東京裁判から戦後責任の思想へ」(大沼保昭著、東信堂)をやっと大宮の図書館で見つけた。 さっそく借り出してページを開くが、重い内容でなかなか読み進まない。 巷に溢れる単純な東京裁判批判や戦後責任論に終始していないところがなおさら重い。

 著者は東大法学部教授で国際法が専門だという。 東京裁判でよく問題にされるA級戦犯の“平和に対する罪”について、罪刑法定主義の観点から問題があることや、罪状の重大要件になった“共同謀議”の包括的適用の違法性などを、専門家の立場から的確に指摘する。 さらに、大東亜戦争最大の被害者であるアジア諸国の判事がほとんど含まれていないことや、被告もしくは重要証人としての天皇が除外されていることなど、この裁判がきわめて不適切な手続きにもとづいて行われたことをきっぱりと批判している。

 その上で著者の筆は“日本の戦後責任”に及ぶのだが、いろいろな切り口が書かれているものの、東京裁判批判の明快さに比べて論旨が今ひとつはっきりしない。 裁いたアメリカやソ連だって、ベトナムやアフガンで同じ様なことをやってるではないかという“真珠湾−広島長崎おあいこ論”を排すべしとか、国民の違法な国家命令への不服従の重要さとか、不十分な戦後賠償とか、従軍慰安婦問題とか、サハリン残留朝鮮人問題とか、大小様々な問題を次々に取り上げて脈絡なく語るので、何が言いたいのか本筋が見えなくなる。 ひとつひとつの問題がそれぞれ重い意味を含むことは重々理解出来るが、戦後責任として総括するとなると途端に論旨が曖昧になる。 悪くすると切れ切れの愚痴を聞かされているようですっきりしない。

 結局、著者の言う日本の戦後責任とは、巻末近くで述べている、「侵略と植民地支配の責任は、国会の不戦決議や慰安婦への補償で済むものではない。 日本がかって過ちを犯したと言う自覚を持ち続け、償いの具体的措置をひとつひとつ積み上げていくことである」、と言う言葉に集約されるのだろうか。

 著者が言いたいことは、東京裁判史観や批判はさておき、15年戦争は紛れもなく中国アジアへの侵略戦争であり、朝鮮台湾の植民地支配であり、千万人を越える犠牲者を出した悪い戦争である。 日本人はそのことを未来永劫忘れず、償い続けろ、と言うことなのだろう。 しかし、これほど強い贖罪意識はもはや一種の信仰に近く、国家社会を支える思想にはなり得ない。 これを戦後60年経った日本において、国民すべての精神世界に押しつけるのは無理なことではないか。

 “償いの具体的措置”の最たるものは戦後賠償であるが、著者は日本の経済力に比して不十分すぎるとも言う。 賠償当時の日本は貧しかったが、アジアの被賠償国はさらに貧しく、少しの金でも喉から手が出た。 その足元を見て日本の優秀な官僚が値切ったからだ、と著者は言う。 贖罪論がそこまで及ぶと、ついて行けなくなる。 古今東西、戦後賠償はいわば国家間のビジネスであり、契約である。 後になって足りないと言いだすのは、近代法が忌避する事後法による裁きに似ている。 それでは外交は成り立たない。

 贖罪の象徴的事由として文中たびたび出てくる、アジアで一千万人を殺害したという数字の根拠や、従軍慰安婦の意味するところも示されていない。 ドイツは戦後責任を明確にしたが、日本はしていないという論旨の根拠も明らかでない。 日本人は理屈抜きにただひたすら謝り続けろと言われているように聞こえる。

 戦前の日本が悪いことをしたという“著者自身の強い贖罪意識”は痛いほど分かる。 それが東大法学部教授という我が国最高の知性から発せられた“思想”だとすると、社会的影響も少なくないだろう。 しかし、それが今の国際情勢の中で日本の国家運営にいかほどの意味と価値を持つのか、いささか疑問でもある。 思想は実利を超越したものだと著者に叱られそうだが。          

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