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2007年10月14日: 白州次郎の伝記を読む

 青柳恵介著、「風の男、白州次郎」(新潮社)を読む。白州次郎は、戦後の吉田内閣を支え、通産省立ち上げや電力再編成などに辣腕をふるった人物であるが、昭和30年代半ばに政財界の表舞台から退いたので、今の人達にはあまり知られていない。最近書店でしばしば彼のことを書いた本を見かけるようになったのはどういう風の吹き回しだろう。この本は国文学者の著者が、著名人から聞き及んだ白州次郎のエピソードや挿話をとりまとめたもので、学術資料的価値は低いが、白州の快男児ぶりをあますところなく伝えている。もっとも興味を引かれた部分は、日本国憲法誕生に関わる下りだ。

 明治35年に芦屋の大富豪の長男として生まれた白州次郎は、中学を卒業後イギリスに渡り、ケンブリッジ大学歴史学科を卒業する。その後イギリス大使吉田茂と親交を結び、戦後吉田が外務大臣になると、彼の懐刀としてマッカーサー占領軍との交渉に当たる。昭和26年のサンフランシスコ講和会議には吉田首相に随行してる。ケンブリッジ出の白州のキングスイングリッシュは完璧で、GHQ民生局長ホイットニー准将がそれを褒めると、「あなたも勉強すればもう少し英語が上手になりますよ」と答えて煙たがられたという逸話が面白い。

 昭和21年2月13日午前10時、ホイットニー准将は幕僚3人を連れて外務省官邸を訪問、吉田外相にGHQがまとめた日本国憲法草案、いわゆるマッカーサー草案を手渡す。原文はもちろん英文である。このときの日本側のメンバーは、吉田外相のほか憲法担当国務大臣松本蒸治、外務省通訳長谷川元吉、および終戦連絡事務局次長白州次郎の4人だったという。それ以前に日本側も松本らが独自に新憲法草案を作っていたが、旧態依然の天皇神権論がベースになっていて、日本の民主化を目指すGHQに相手にされなかった。このGHQの草案について、白州次郎は後年次のように回想している。

 「…渡された原文は、議会が一院制になっているほかは、ほとんど今日の憲法の各条文を彷彿とさせるに足るものであった。」

 その後日本側は内容変更についてGHQと交渉するが、2院制問題を除いてすべて拒絶される。交渉の先頭に立ったのはもちろん連絡官白州次郎である。3週間後の3月2日、白州はホイットニーから呼び出しを受け、翻訳官を連れてこいと指示される。数名の外務省翻訳官を同道し再訪すると、GHQ内の一室をあてがわれ、マッカーサー草案の全文を一晩で日本語訳するように命じられる。メンバーの中に憲法学者など一人もいない。この日本語訳を幣原首相が3月5日の閣議で受諾、天皇の「今になっては仕方あるまい」という裁可を仰ぎ、3月6日、「憲法改正草案要綱」として公表する。この場面の白州の回想は次のようである。

 「こうして、日本語で書かれた新憲法草案は、専門の法律学者の検討を経ることなく、一夜のうちに完成した。元の英文の原文とて、おそらくは専門の憲法学者の手には触れられていまい。せいぜい、戦時応召でマッカーサー麾下に入った二、三の弁護仕上がり将校ぐらいのものであろう。」

 「草案の天皇の地位に関する記述が“Symbol of State”となっている点は、外務省きっての翻訳官達を大いに惑わせた。小畑翻訳官が、「白州さん、シンボルと言うのはなんやねん?」、と大阪弁で問うので、僕は「井上の英和辞典でも引いたら?」と応じた。やがて辞書を引いていた小畑氏が頭を振り振り、「やっぱり白州さん、シンボルは“象徴”や」。こうして新憲法の「象徴」という言葉は一冊の辞書で決まった。」

 当時の思い出を文芸批評家の河上徹太郎氏は、自書「有愁日記」(新潮社)で次のように書いている。
 「その頃私は焼け出されて白州家に居候していたが、彼は一週間ばかりの缶詰から帰ってきて、「監禁されて強姦されたら、アイノコが生まれたィ」と呟いていた。そのとき私はそれ以上問いつめる気が起こらなかった。」

 我々日本人は、戦後60年間、何とも情けない憲法を後生大事に守ってきたものである。

 

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