【伝蔵荘日誌】

2007年9月6日: 呉善花著、「韓国併合への道」を読む。

 呉善花氏の著書、「韓国併合への道」(文春新書)を読む。 著者は1956年生まれの韓国人、1983年に留学生として来日し、現在は執筆の傍ら日韓文化協会の理事をされている。 著書では、李朝末期から日韓併合に至るまでの朝鮮内外の状況を、史実にもとづいてつぶさに書いている。 一読して、韓国人ではありながら感情的反日意識にとらわれず、史実を検証しながら客観的な記述を心懸けている印象を受ける。

 当時の李朝−韓国は、日本をはじめとする列強の帝国主義に翻弄されながら、国家としての主体性を保てず、独立を勝ち取れなかった。 その原因と責任の大半が韓国自身にあるという冷静な論調である。
  出版されるやいなや韓国では激しい非難を浴び、国賊とまで貶められたそうだ。 しかしよく読めば韓国人である著者自身の、祖国がなすすべもなく蹂躙されたことの悔しさ、屈辱感、無念さが全編を通じにじみ出ている。

 併合前の李朝−韓国は実質的に清国の朝貢国の状態にあった。 金玉均ら若手革新派などによる改革独立の動きがあったが、両班階級を中心とする旧弊な官僚支配を打ち破れず、いずれも挫折した。 当時の支配階級は、清、ロシア、日本の間を二股膏薬的に揺れ動き、明治維新で日本が見せたような民族を統合した自主独立の気概をまったく欠いていた。
 著者は巻末で次のように書いている。

「併合前、李朝−韓国には三つの流れがあった。 中華主義と硬直した官僚制度に基づいた李朝正統の流れ、金玉均、金弘集ら若手実学派の流れ、最後まで力を持ち続けた李朝正統の義兵中心勢力である衛生斥邪派、である。 併合を前にして、この三つはついに大同団結することはなかった。 そう言う状況で、李朝−韓国は、すべての非正当性活動を執拗に排除しようとする嫉妬深い中央集権主義(G.ヘンダーソン、「朝鮮の政治社会」)を乗り越えることが出来ず、上からの改革の芽をつみ取り、下からの挙国一致体制を生み出すことが出来なかった。  併合ではなく独立への道を自らの手で開くことが出来なかったのは、何よりもそのためである。

 冷静な筆致の行間に、著者の歯ぎしりが聞こえてくるようだ。

 この著書を読んで、日韓併合と戦後日本、その骨格となった日本国憲法の相似点に思いが及んだ。 日韓併合と戦後日本はいずれも強大国の砲艦外交が生み出した鬼っ子である。 それによって、韓国、日本双方とも国家としての矜持、独立心、ナショナリズムを放棄し、代償として急速な経済的発展と高い生活水準を手に入れた。 いまだに両国民がそのことにまったく思いを致さない点も共通している。

 日韓併合条約は1910年(明治43年)に時の韓国政府との合意のもと、国際法に則って平和裡に結ばれた。 日本人の多くが誤解してるように、軍事力で占領して、むりやり植民地化したわけではない。 そうは言っても、日露戦争に勝利した後の強大な帝国陸海軍がバックに控えていたからこそ可能になった典型的砲艦外交であることには違いない。 そこ至るまでの李朝−韓国の自尊心と主体性を欠いた国家運営が招いた“禍”とは言え。

 併合前の韓国はきわめて貧しい国であった。 鉄道や電力、道路など社会インフラは皆無に近く、厳しい階層社会のもと、両班ら支配階級以外教育も受けられず、医療も行き届かず、農業生産もきわめて低い水準であった。 首都ソウルの大通りでさえ糞尿を垂れ流ししていたという。

 併合直前の1907年度、韓国の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出との差額3000万円は全額日本が負担した。(「日帝36年」の真実 崔基鎬)
 併合後、日本政府は莫大な資金をつぎ込み、鉄道、ダム、道路などインフラを整備し、義務教育制度を作り、工業生産を起こし、医療制度、農業改革を実施した。 1945年の敗戦までに日本が朝鮮半島につぎ込んだ資本・資産は、現在の貨幣価値に換算して80兆円以上に達したと言われる。 植民地搾取とは正反対の金額である。

 これらの施策により、1920〜30年代の韓国の年平均実質GDPは4.10%に上がった。 この数字は同じ期間の欧州(1%台)や日本・米国(3%台)よりはるかに高いものだったと言われる。(朝鮮日報、李先敏)
 このお陰で韓国民は日本の地方程度の生活水準を享受出来るようになる。 京城帝国大学(現ソウル大学)は日本で6番目の、大阪大学や名古屋大学より早く作られた総合大学である。 韓国人は日本と同じ水準の義務教育や高等教育を受けられるようになった。

 解放後わずか5年後の1950年、金日成率いる北朝鮮軍が、兵力11万、火砲1600門、戦車130台の大兵力をもって南鮮に侵攻し、米軍と戦火を交えられたのは、旧宗主国日本が残した経済力とインフラの賜物である。 日本が残した鴨緑江のダムや工場生産設備のお陰で、1960年代まで韓国より北朝鮮の方が経済力が高かったと言われる。

 戦後日本は、昭和20年9月2日、東京湾に碇泊するアメリカ戦艦ミズーリの甲板で行われた降伏調印式により出発した。 その後の日本は、GHQに与えられた日本国憲法と大国アメリカの傘の下、国家安全保障はそっちのけで経済発展に邁進した。 その結果が世界第2の経済大国である。 一時はエコノミックアニマルとまで蔑まれた。 マッカーサーGHQの占領施策に批判的だったイギリスは、次のように言っている。

 「…この憲法は外国勢力に押しつけられ、日本人の心情を侮辱するものだ。 戦争放棄の条項が見直されない場合、日本は国連と米国の保護を要求してくるだろう。 9条を押しつけた以上、米国はそれを拒否出来ないだろう」(1948年英国外務省報告)
 戦後60年の流れは、イギリス人が見通した通りになった。

 日本人の多くは、9条の戦争放棄条項は日本人が自主的に選んだもの、経済成長は自分たちの努力だけで実現出来たもの、と思いこんでいる。 9条については、イギリス人が忖度したような侮辱とは感じていない。 独立国としての自尊心、矜持を失っているのだろう。

 韓国の人達は、日韓併合は日本による植民地支配と搾取以外の何物でもなく、解放後の韓国の経済成長は独力で成し遂げたと思いこんでいる。

 北朝鮮の人達は、偉大なる金日成主席の指導の下、自主独立を勝ち取り、強大国と対等にわたり合えていると思いこまされている。

 いずれも現実を直視しない、壮大な幻想と言えよう。
        

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