【伝蔵荘日誌】
2007年1月12日: アーネスト・サトウ日記抄第4巻を読む。 T.G.

 正月早々はやりのノロウィルスにやられダウンしていた。 おせちの残りばかりで生ものは食べていないし、外出も控えていたのに自分だけ罹った。 同じものを食べていた家人はなぜか何ともない。 やっと体調が戻ったので読みかけの日記抄第4巻を読了する。

【サトウと勤王の志士】
 この第4巻は維新2年前の1866年、イギリス公使パークスの命を受けたサトウが旗艦プリンセス・ロイヤル号に乗って西方へ情報収集に出掛けるところから始まっている。 すでに来日4年目。日本語もほぼ完璧の域に達していただろう。 この旅行でサトウは長崎、鹿児島、宇和島、兵庫(神戸)を回っている。 長崎ではシーボルトの娘伊禰に会い、「40歳になる美しい顔立ちの女性だが、ヨーロッパ人の面影はほとんどない」と書き残している。 宇和島では藩主伊達宗徳と二日にわたって痛飲し、いろいろ政治談義を行っている。 宗徳の「日本は天皇を元首とする連邦帝国になるべきで、薩摩長州も同じ考えだ」と言う発言に「同感だ」と返したりしている。

【西郷隆盛との会見】
 この旅行中の人物交流の白眉は何と言っても兵庫における西郷隆盛との会見だろう。 兵庫に上陸して薩摩藩の本陣で西郷と面談するが、初対面の印象をこう記している。 『型の如く挨拶を交わした後、私は弱ってしまった。 というのは、彼は実に愚鈍そうに見えたし、一向に自分の方から話そうとしなかったからだ。』。 この印象は坂本竜馬が勝海舟に語ったという「馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大利口だろう」という有名な西郷評と相通じるものがある。
 サトウはこの会見を会話体で詳細に書き残している。 少し前将軍職を拝した一橋慶喜についてサトウが尋ねると、西郷は『昨日まで乞食のような浪人大名だったのが、今は征夷大将軍なのです』と答えたりしているのが面白い。 また西郷が『幕府が勝手にこの国を滅ぼしてしまうのを黙って見ているわけにはいかない。 3年後には我々も彼(慶喜)の正体を暴くことが出来るでしょう』と言うと、サトウが思わず「3年は長すぎます」などと口走る場面が面白い。
 かねがね幕府べったりのフランス公使ロッシュに対して、イギリス公使パークスは幕府、薩長双方いずれにも荷担せず内政不干渉を基本的外交方針としていた。 情報将校であるサトウにも常々その旨指示していたが、このサトウの発言はその訓令の枠をまったく逸脱している。 サトウは攘夷の志士達と交流を持つうちに自然と彼らに共感を覚えていたのだろう。 この会見についてはサトウの日記の他に西郷自身の書簡、上司パークスに宛てた公式の報告書が残っていて、ほぼ内容が一致している。

【英国策論とフランス】
 サトウは前の年横浜で発行されていたジャパン・タイムスに無記名で「英国策論」を書いている。 この記事は和訳されて当時の日本人にも読まれていた。 この中でサトウは、安政年間に幕府がイギリスなど五カ国と結んだ条約は将軍と取り交わしたものではなく、締結の主体を「日本の真の支配者である天皇と連合諸大名に切り替えるべき」と主張している。 これは当時のイギリスの公式見解とほぼ一致している。

 この頃フランスは幕府に肩入れし、将軍職についた慶喜もロッシュに小銃、大砲、軍艦の購入を含め助力を訴えていた。 ロッシュ宛の親書で、「…この上大小銃砲並びに蒸気船など速やかに配慮せられ、我が軍備をして十分の勝算を保ち、足下(ロッシュ)の厚意を十全せんことを欲す。 日ならず平定に至らば、我が国の幸福この上なく、足下の尽力また莫大ならん」(徳川慶喜公自伝)などと実に危なっかしい訴えをしている。 ロッシュも調子に乗って当時フランスが朝鮮といざこざを起こしていたのを、幕府軍と連合してやっつけようなどと持ちかけたりしている。
 歴史にイフはないが、もしこのときフランスの軍事力を受け入れて幕府側が勝っていたら、明治維新はどうなっていたのだろう。 おそらくフランスの属国のような開国になっていたかもしれない。 そう言う事例は世界中に沢山ある。 日本は実に幸運な国と言わざるを得ない。

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