【伝蔵荘日誌】
2006年12月12日:「勝海舟 氷川清話」を読む。 T.G.

【改訂版氷川清話】
 図書館で「勝海舟 氷川清話(江藤淳・松浦玲編)」(講談社学術文庫)を借りて読む。 この有名な勝海舟の回顧談はいろいろな著書で引用されているのですっかり読んだ気になっていたが、一種の既視感(デジャビュ)、実物を読むのは初めてだ。

 本書の前書きによると、元々の氷川清話の原本は、維新から30年も経った明治中期に赤坂氷川町の海舟邸で吉本襄らが聞き取りした話しをまとめたもの(吉本版)で、その際意図的な修文、捏造がなされ、史実と異なる点が多々あるのだという。 これを編者の江藤淳、松浦玲等が再検証を加え、書き直したものが本書である。 いずれについても勝海舟自身が内容を校閲しているわけではないから、海舟の生の言葉ではなくなっている。

【海舟の記憶と人物評】
 所感としては、実際に幕末騒乱の場に居合わし、一方の旗頭として処理に当たった当事者の話だから面白いことは間違いないし、歴史的文献としての価値は否定しない。しかし所詮は維新後30年も経った後の、功成り名遂げた年寄りの思い出話である。 例えてみれば、彦左衛門の講談本でも読んでいる感じで、どうも臨場感がない。 いくら記憶力のいい人でも30年経てば事細かなことは忘れるだろうし、人間の感情が記憶を変質させてしまう可能性だって大だ。

 例えば、氷川清話の中で幕末偉人の人物評が書かれている。 坂本龍馬が彼に語ったという、「西郷は少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で利口なら大利口だろう」という西郷隆盛の人物評は、司馬遼太郎が「竜馬が行く」で取り上げて有名になったが、如何にも出来すぎた感じで、本当に竜馬が語った言葉か疑わしい。 何となく年寄りのホラ話に聞こえないでもない。 人の又聞きを文章力のある作家が上手く脚色した感じが否めない。

【司馬遼太郎のフィクション】
 司馬遼太郎の歴史観に裏打ちされた一連の作品は、一種の歴史書のような評価を受けている。 「坂の上の雲」など一連の作品を読んで初めて幕末明治の歴史を知ったという人は少なくない。 しかし同時に彼は類い希なストーリーテラーである。 少なくともノンフィクションに関しては改竄とは言わないまでも、ストーリーに都合のよい脚色はいくらもある。
 例を挙げると、吉田松陰と高杉晋作を書いた「世に棲む日々」の中に、長州戦争の後、イギリスの軍艦の甲板で行われた講和会議に高杉晋作が長州藩を代表して特使として乗り込む場面がある。 イギリス側が講和の条件として彦島の租借を持ち出すと、傲然と構えた晋作が突然立ち上がり、朗々と日本国の成り立ちから弁じ始め、とうとう煙に巻いてしまうという下りが出てくる。 司馬遼太郎の幕末ものには竜馬や西郷など英雄豪傑がいろいろ書かれているが、中でもこの場面が一番格好いい。 司馬の幕末ものの中で最も好きな場面だ。
 しかしこの場面に実際に立ち会ったイギリス外交官アーネスト・サトウの日記を読むとそうは書かれていない。 司馬遼太郎がこの日誌からヒントを得て書いたのは間違いないが、実際のサトウの日記(アーネスト・サトウ日記抄)には、「宍戸(高杉の偽名)は最初は悪魔のように傲然と構えていたが、次第におとなしくなった」とだけあり、晋作の大演説も彦島租借の話も出てこない。
 この場面の記録は他にないから、司馬遼太郎の完全な創作である。 彦島租借に関してはこのとき同席していた伊藤俊輔(後の博文)が晩年語っていたと言う話しがあるが、史実としてはほかに確証が何も残っていない。 ことほど左様に、後年の歴史評価は難しい。

【回顧談と日記の差】
 しかし何と言っても氷川清話は幕末と明治を幕府側要人として実際に見聞した人の語り口だから面白いことは間違いない。 同じ佐幕側でも、勝海舟は榎本武揚のように維新後明治政府に地位を得たわけではないが、一種のご意見番のような立場で明治政府の内政や外交を語っている。 ある種岡目八目的な政治批評になっている。 各所に出てくる人物評も、実際にその目で見た人の語り口だから説得力がある。 しかし全体的に臨場感はイマイチである。 臨場感なら前述のアーネスト・サトウの日記の方がはるかにビビッドに史実を伝えている。
 例えば各国外交団が徳川慶喜に初めて会見した場面など、慶喜ががどういう服装で、どんな顔つきをした人物で、どういう立ち居振る舞いをしたか、を実況放送のように細かに記録している。 こういう記述は氷川清話にはない。 記憶が新しいうちに書く日記と、30年も経った後の回顧談の違いであろう。 明治維新に関し、日本側にアーネスト・サトウのような文章化された記録がないのが悔やまれる。 あったら、もっと歴史が面白いものになっただろうに。

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