【伝蔵荘日誌】
2006年12月7日: 大澤真幸著「戦後の思想空間」を読む。 T.G.

 読書会のテーマ本、大澤真幸著「戦後の思想空間」(ちくま新書)を本屋で買ってきて読む。 この種の社会学者の著書はこれまであまり読んだことがない。

 【太平洋戦争と60年安保】
 著者の大澤氏は昭和33年生まれの大学教授にして社会学者。 本論に入る前に戦前戦後60年のアナロジーから書き始める。 面白い対比ではあるが、特段深い歴史観に裏打ちされているとは思えない。 例えば大本教と二・二六事件を時間軸だけの類似性からオウム真理教と符合させている。 単なるレトリック、悪く言えば思いつきのレベルである。
 また60年安保を戦後エポックの一つとして取り上げる。 著者は我々世代が鮮烈な記憶を共有する60年安保の年はわずか2歳。 小生が数えで2歳の時の一大事件と言えば真珠湾攻撃。 小生自身太平洋戦争について自覚出来る記憶がないのと同じく、彼にとっての60年安保はまさしく観念上の出来事である。 その著者が60年安保をどう見ているか、推して知るべし、だ。

【オーム真理教とワイゼッカー】
 著者はどうやら戦後の思想空間における重大なエポックの一つにオウム真理教を位置づけているらしい。 しかしその解釈と評価に戦前の西田哲学から戦後の丸山真男、果てはワイゼッカーまで持ち出すのは、いささか牛刀をもって鶏頭を切る感が否めない。 たしかにオウムはさほど精神性が高いとは思われない教祖の麻原に、知的水準の高い連中があれほど見事に籠絡された事実を見ると不思議ではあるが、新興宗教に付き物の陳腐な現象だ。 とても“戦後日本の思想空間”を語るような代物ではない。

 著者はオウムのまか不思議さを、ナチズムの温床となったワイマール期の思潮、シニシズムで解釈する。 彼はシニシズムを、「イデオロギーを越えた、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識」と説明する。  虚偽意識とは「そんなこと嘘だと分かっているけれども、わざとそうしているんだよ。」と言う“態度”なのだと言う。 その上でオウムは「消費社会的シニシズムの徹底した形態」だと分析する。高等教育を受け、知的レベルの高い連中が、俗物の権化のような麻原になぜあのように無条件に帰依し得たのか。 その解釈として、ワイゼッカーに端を発するシニシズムと同一なのだと指摘する。 面白い見方ではあるが、いささか牽強付会の感がある。

【60年安保と戦後思想空間】
 また著者は60年安保について、「戦後日本の言説空間の中で、超越的な他者としてのアメリカへの決定的依存が根本条件」と指摘する。 この指摘はこの著書の中で数少ない著者の主張のようにも見える。 彼は、『60年安保の民主主義的理想のベースに反米があったが、それは戦後の世界システムの中心にあるアメリカから従属的なポジションを与えられた日本の中で、左翼を含めた当時の知識人がアメリカの善意に無条件に依存していただけ』と指摘する。 つまり左翼もリベラル知識人も、反米を叫び国会前でデモを繰り返していた我々学生も、アメリカの善意を無条件に信じ、何をしてもアメリカには見捨てられないと言う安心感がベースにあったと言うことである。 言い換えればお釈迦様の掌の上で踊っていただけと言うことだ。

 この指摘は当時日和見的な反米的気分でデモに参加していた自分自身にも理解出来る部分がある。 確かに今日現在の日本の思想空間をある意味規定するものと言えるかも知れない。 『アメリカを中心とする世界システムの中で従属的でマージナルなポジションを与えられた戦後日本は、“絶対者であるアメリカという男を無条件に信じる女という関係”にある』という著者の指摘は愉快ではないが、正鵠を射ている部分はある。
 沖縄や基地問題や安全保障問題で反米気分が喧しい昨今の言説を聞いていると、何を言ってもアメリカには梯子を外されないという謂われ無き安心感、甘えがつきまとっているように感じられる。 著者の言うとおり、戦後日本の思想空間において我々が心得るべき点であるのかも知れない。

  【現代思想家の文章力】
 それにしても、思想家というのは実に分かりにくい文章を書くものだ。 読んでいてくたびれる。 難解な文章がよい文章だと誤解しているのではないか。 分かり難さの原因の一つは過剰で無駄なレトリックと論理の不完全さにある。 自分自身も若い頃数学を学んだので、理屈っぽさには比較的慣れている方だ。 数学の場合、あやふやな要素で組み立てた論理は完全に無意味だが、この著書はそう言う乱暴な推論や演繹のオンパレードである。 論理だと思って読み進めると頭がつっかえて思考が先へ進まなくなる。 思想家と言われる連中は、いつもこのような分かりにくい不完全な論理展開をするのだろうか。
 無駄なレトリックの例を挙げると、西田哲学の重要概念である「場所」を説明するのに、『この概念を“暴力的に”単純化して説明します。』などという表現をいとも簡単に用いる。 文脈としては、“少し乱暴に”とでも書いて何ら問題はない。 “暴力的に”などという不必要にエキセントリックな形容副詞を用いる必然性はさらさらない。 そう言う無意味なレトリックが至る所に出てくるので実に読みづらい。

【現代思想家と漫画】
 テーマの高尚さと対照的に“戦後思想家の軽さ”を感じるのは、ウルトラマンや機動戦士ガンダムなど、他愛もない子供の漫画を持ち出してさも重大そうに論じている点だ。 著者はこれらの漫画を西田哲学や丸山真男やワイゼッカーの思想性と対比して論じるが、いくら何でもそれはないだろう。 どう読んでも思想など無縁の子供の漫画だ。 細部を見れば何らかのアナロジーはあるのだろうが、こじつけの域を出ない。 とても思想を論じるレベルではない。 今頃の大学の先生はこんなことを学生に教えているのだろうか。

 この著書には著者自身の思想がほとんど書かれていない。 多くの思想家や論客の論点を満遍なく取り上げて解説しているが、自身の思想や主張は皆無である。 だから読書評もとりとめがなくなる。

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