2006年11月13日: 桑原武夫著「チョゴリザ登頂」記を読む。 T.G.

 新橋駅で降りたら西口駅前で青空古本市をやっている。 冷やかしに覗いていたら桑原武夫著「チョゴリザ登頂」(文芸春秋新社)を見つけた。 さっそく買って帰りの電車で読む。 昔学生時代に愛読した本だが、いつの間にかなくしていた。 いかにもフランス文学者らしい諧謔に満ちた簡潔な文章が懐かしい。

【花嫁の峰チョゴリザ】
 チョゴリザはカラコルムの7000m峰で、不世出のスーパー登山家ヘルマン・ブールが単独登頂の途中遭難死したことで有名である。 今を去ること50年前の1958年に、この未踏峰に京都大学学士山岳会が挑み初登頂した。 京都大学は戦前から探検登山の名門校だった。 今は昔の話しである。 そのとき隊長を務めた文学部の桑原教授が書いたのがこの本である。 普通の登頂記のように無味乾燥な山行記録文ではなく、行き帰りのキャラバンや山岳風景、現地人達との交流などをフランス文学の大家らしい観察眼で活写していて面白い。 この隊にはプロのカメラマンが同行し、当時では珍しい35ミリフィルムを持ち込んで全行程の記録を劇場映画にした。 一番町の名画座で上映されたのをわくわくしながら見たのを覚えている。

 当時のヒマラヤ、カラコルムはまだ探検登山の時代で、各国のプロ遠征隊しか入らない。 今どきのような旅行社丸抱えのツアーなどない時代である。 この年もこの時期にバルトロ氷河の奥まで入ったのは、京大隊の他アメリカのヒドン・ピーク隊、イタリアのガッシャーブルム隊だけで、いずれも初登頂を狙った。 まだまだ未踏峰がたくさん残っていた夢のような時代である。 映画で見た雄大なバルトロ氷河とその奥に林立するK2、ヒドン・ピーク、ガッシャーブルム、ブロード・ピークなどの8千m峰は紛れもなく世界最高の山岳風景であった。 氷河のスケールといい、カラパタールから見るエベレスト山群より一段と迫力がある。 かねがね死ぬまでに一度バルトロ氷河を遡行し、有名なコンコルディアからK2を見るのが夢だったが、アルパイン・ツアーの岡本氏に「カラパタールよりはるかにきつい行程なので、その年では無理」と言われて諦めている。

【50年代のヒマラヤ登山】
 1958年の日本はまだまだ貧しい敗戦国。 外貨の持ち出しもままならない。 イタリア隊の10分の1の切りつめた予算である。 装備も当時としては高価な羽毛服などをそろえてはいるが、テントも登山用具も今どきのような高性能ではなかった。 高所でプロパンガスが使われ始めた時期で、取り扱いにな馴れるまでと旧来の灯油ラディウスを併用したりしている。 ポーターを少人数しか雇えないので、食事は高所での行動食と隊長食以外は現地食主義を貫いた。 現地食の中心はふすまの入ったアタ(小麦粉)、羊の乳で作った粗製バター、ギー、空豆に似たダルだったそうで、毎日コックが作ったチャパティを食べている。 贅沢な行動食と言っても、今ではほとんど見向きもしないアルファ米である。 食料だけで500万円かけたという最近の三浦エベレスト隊とは雲泥の差である。 今のように登山システムが確立していない時期なので、ポーターも裸足で歩くような現地人を傭うしかない。 カラコルムにはヒマラヤのシェルパのような高所訓練を受けたポーターはいない。 6000m以上だとまったく使い物にならず、荷揚げもほとんど隊員がやらねばならない。 おんぶにダッコのトレッキングツアーがバルトロ氷河の奥地まで入る昨今とは大違いだ。 そう言えば本の中で隊員の高山病の様子が書かれているが、ダイアモックスなど治療薬の話は一切出てこない。

【イギリス貴族とヒマラヤ】
 大戦後のパキスタンの山奥の貧しい現地人との交流について、桑原が次のように書いているのが印象的だ。
『イギリスなど外国の登山隊は、現地人は人間ではない、飲食と睡眠と性交以外何も出来ない獣人だと軽蔑し、賃金を払うときも決して手渡さず、地べたに投げて拾わせる。 我々日本人にはとてもそう言うことは出来ない。』
 これもイギリス貴族の遊びから始まった探検登山の名残だったのだろうか。 西洋人のアジア蔑視は相当根深いものだ。

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