2006年9月2日: 「アーネスト・サトウ日記抄その2」を読む。 T.G.

 図書館で借りて第2巻を読む。 この巻は「遠い崖」という副題が付いており、薩英戦争と連合軍による長州遠征の下りが書かれている。 風雲急を告げる幕末の最も興味深い場面だ。 いろいろ経緯があって薩摩と長州はイギリスと戦火を交え惨敗するが、講和直後に交戦相手のイギリスに軍艦購入の斡旋を依頼したり(薩摩)、江戸へ帰還する砲艦に上京する役人を乗せてくれと頼んだり(長州)するところが面白い。 因習に縛られた幕府と違い、幕末の薩摩、長州が実にフレキシブルで活力に富んだ藩であったことがよく分かる。 この戦いの後、両藩とイギリスは親密な関係になり、薩長主導の維新と明治政府に多大な好影響を及ぼした。

 長州遠征の旗艦にサトウは通訳として乗艦している。 この前後の彼の日記はさながら観戦記の趣がある。 少し前からサトウと交流のあった伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が、戦いの最中も後も盛んにサトウと接触し、交渉に当たっている様子が日記や手紙に詳しく書かれている。  司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読むと、下級武士の俊輔や聞多はまるで親分高杉晋作の使い走りのように書かれているが、この二人が長州とイギリスとの友好関係発展に大いに寄与したことは間違いない。 当時日本に進出していた外国勢の内、特にイギリスが日本国内の情報に通じ、的確に行動出来たのは、サトウとこの二人の交流に負うところが大きい。 サトウは二人と個人的にも親しくなり、三田村に上陸して連れ立って料理屋に上がり込んだり、遅くなると泊まっていけと勧められたりする仲になる。
(写真は志士時代の博文、すなわち伊藤俊輔)

 来日2年半目の元治二年(1865年)、サトウ21歳の折り、彼が伊藤俊輔に宛てた手紙が残っている。 見事な候文で、手紙の作法、敬語の使い方も完璧。とても2年半で憶えた日本語とは思えない。 よほどの語学の天才だったのだろう。

『先日より、再度御投紙これ有り、有り難く存じ奉り候。然らば薄暑に御候えども、いよいよ御機嫌よく入らせられ候段、斜めならず賀し奉り候。 拙者義も相変わる義無之、罷り暮らし候間、御安堵なし下さる可く候。 然らば兼ねて相触れられし通り、先月十六日、徳川家の人数出立に相成り候所、総人数は五万一千人に過ぎず、且つ又その内砲兵隊千人ほど之有る由にて、野戦砲は至って小さき不用の品物と相聞え候。 将又当分の内、我国軍艦一両隻、貴辺の馬関(下関)港碇泊せしめ候義、全く徳川に加勢する為には無之、只我国商船より無作法に武器等を鬻ぎ(ひさぎ)来る能らざらしむる為に御座候。 然れども、他国商船御買い求め候義、毛頭の仔細も無之候。全体貴方相助け申し候義能わず候えども、又関東にも決して手伝い致さず候。 然らば、先達にて御頼みの英和字書、相送り差し上げ申し候間、御笑納下さる可く候。 事に寄りて其御地まで参る可き積もりに候えども、未だ相定まらず、残念の至りに存じ奉り候。
不具謹言

    閏五月四日       薩道懇之助(サトウ・アーネスト)
伊藤春輔(俊輔)尊兄

二白
文多(井上聞多)並びに山方敬三御両仁様へも宜敷く御申達下さる可く候。』
 

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