2006年7月25日: 「旅立ち−アーネスト・サトウ日記抄」を読む。 T.G.

【イギリス外交官の幕末滞在記】
  図書館で借りた「旅立ち−アーネスト・サトウ日記抄」の第一巻を読む。 30年前に朝日新聞に掲載された萩原延壽氏の著書である。 アーネスト・サトウは明治維新前後に日本に滞在したイギリス外交官で、著書「一外交官の見た明治維新」でよく知られる。 この著書はサトウが明治39年に外交官を引退した後、1929年(昭和4年)に没するまでの間に書かれた。 明治維新前後、日本に滞在した時期の日記をベースにした“昔語り”である。 我々がよく知るサトウは、この著書に書かれた文久二年の初来日から明治維新直後の明治2年までの6年間であるが、その後も2度日本の大使館に勤務し、明治33年に離日するまで通算25年を日本で過ごしたことはあまり知られていない。 サトウはイギリス外務省勤務の間克明に日記を付けていて、ロンドンの国立公文書館にすべて収録されているそうである。 萩原氏がここに通って日記を通読し、日本にかかわる部分を他の資料と絡めて抄訳にまとめたのが全10巻のこの著書である。

【生麦事件とイギリスの外交】
  第1巻はサトウが上海経由で横浜に初上陸してから最初の1年間が記されている。 横浜に住んで日本語の習得を始める様子が面白い。 上陸の3日後に有名な生麦事件が起きる。 サトウは来日後短期間に日本語の達人になるが、まだその時期は日本語はほとんど分からない。 その状況下でいきなり幕末攘夷の嵐に巻き込まれた様子が友人ウィリスの書簡などとともに克明に記されている。 当時のイギリス大使ニールは軍人出身の外交官で、本国外務省の指示に従い幕府に強圧的な態度に出る。 薩摩藩士に斬り殺されたリチャードソンは上海から物見遊山に来たイギリス商人で、本国の外務大臣ラッセルに送った報告書には“Mohawks−貴族のごろつき”と書かれるようなあまり評判のよくない人物だったらしい。 おそらく薩摩藩主の行列に未開人に対するような不遜な態度を取ったのだろう。 そのような単なる一民間人が引き起こした事件に対し、イギリスは幕府に40万ドル(3万2千両)という途方もない賠償金を要求する。 受け入れなければ軍事行動に出ると上海から呼び寄せたイギリスの軍艦20隻を横浜沖に並べて幕府を恫喝する。

 この事件が一段落するまでの経緯がサトウの日記を中心に書かれているが、これを読んで思うのは、おそらくイギリスはアヘン戦争で香港を割譲させたのと同じことを日本でやろうとしたに違いない。 交渉途中、日本側の交渉条件に対し横浜の外国人居留地を武力占拠すると脅したりする。 これに対し日本側は外国奉行の竹本正雅や老中小笠原長行らが硬軟取り混ぜた丁々発止の交渉を行い、賠償金を支払う代わりに横浜の“香港化”は何とか食い止める。 イギリスの目的はあくまで横浜居留地の割譲にあり、巨額の賠償はそのための難癖だったに違いない。 外国勢の中でアメリカ大使ブキャナンだけが終始イギリスの魂胆、横暴を批判的に見ているのが面白い。

【イギリス植民地政策の変化】
 この後イギリスは薩英戦争をへて明治維新に建設的方向から深くコミットするようになるが、この事件後は日本に対して支那やインドに対したのと同じ様な暴力的植民地政策を取らなくなっている。 このイギリスの変化は、この事件において時の日本政府(幕府)が示した日本の意志と態度が与えた教訓に違いない。 その証拠に、北京の公使館にも勤務したことがあるニールがラッセル外相に当てた公文書で次のように書き残している。

『日本の場合、支那と違って強制手段の適用を極地化し、部分的な性質のものにとどめることは不可能である。 支那であれば有る地点で戦闘が行われていても、それ以外の地域の外国人は平和な状態で普通の生活を続けることが可能である。 しかし日本では戦闘状態に入るという知らせが伝わるやいなや、すべての条約港の外国人の安全が同時に危険に曝される。 これを防ぐためには大兵力の駐屯が必要だがそういう余裕は我々にない。』

 つまり支那が相手なら一握りの兵力でいとも易々と植民地支配が可能だが、日本では同じ戦略は成り立たないと言うことである。 当時上海に集結していたイギリスの兵力はわずか2000人、そのうち戦闘に耐えられる兵士はわずか400人だったとサトウは書いている。 遠いアジアに何万もの軍隊を送る力は当時の大英帝国にもなかった。 イギリスがこの程度の軍事力で支那やインドやビルマなどを容易に植民地化出来たにもかかわらず、同じことが日本には出来なかった。 支那がだらしなさ過ぎたのか、当時の日本の政治レベルや民度が高かったのか、そのいずれかに違いない。 いやその両方だろう。 人のふり見て今の中国は大いに反省しているに違いない。 日中戦争の経験も含めてその反省が妙な方向に突出し、覇権意識丸出しに傾いているのが気になる。 加えて、今の日本の民度、精神力、覇気が幕末の頃より衰えていはしないかという懸念もある。

 あと9巻、読了はいつのことやら。  

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