【伝蔵荘日誌】

2006年1月9日:「サムライ古写真帖―武士道に生きた男たちの肖像」を読む。  T.G.

   図書館で「サムライ古写真帳−武士道に生きた男達の肖像」(人物往来社)という本を見つけて借りる。 実に面白い。  江戸末期から明治初期までのサムライの写真が満載である。 よくこれだけの写真が残っていたものだと感心する。 中心は江戸末期の主だった藩主や明治維新前後の勤王佐幕の志士達である。

 日本に写真がもたらされたのは天保12年(1841年)6月1日。 長崎の蘭学者上野俊之丞がオランダからカメラを持ち帰り、鹿児島で薩摩藩世子島津斉彬を撮影したのが始まりだという。 6月1日が写真の日の謂われだそうな。

 藩主ではまずその親玉の徳川慶喜。 実にいい男である。 切れ長の大きな目、鼻筋が通った面長な顔。 まるで歌舞伎役者である。
次いで鍋島藩鍋島直正。 沈着重厚な面持ちで、気むずかしい大企業の社長そのもの。 部下はさぞきつかっただろうな。  薩摩藩島津忠義。 貴族のような優男の水戸藩徳川昭武。 「そうせい公」とあだ名され、高杉晋作など下の言うことを何でも聞いたという長州藩第13代藩主毛利敬親は苦み走った風貌である。 土佐藩の山内容堂は、伝えられている気の強さと覇気が顔に出ている。 そのほか上田藩、福井藩、仙台藩、宇和島藩、川越藩、などなどである。

 最も興味深いのは維新の志士たちである。 勤王派は有名な坂本龍馬、桂小五郎、中岡慎太郎、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上馨、大久保利通、大隈重信、後藤象二郎などなど。 主だった志士はほとんど写真に残っているが、なぜか最も大物の西郷隆盛は1枚もない。 多分写真嫌いだったのだろう。 坂本龍馬の写真はいろいろ残っているが、有名な桂浜の銅像のモデルになった懐手の写真は、上野彦馬写真館で土佐の門人井上俊三が写したものだそうな。 高杉晋作と伊藤俊輔(博文)が並んで写っている写真を見ると、司馬遼太郎が書いたように伊藤俊輔は親分高杉晋作の使い走りに過ぎなかったことが一目瞭然である。

 方や佐幕側。 勝海舟はきりっとした怜悧で気の強そうな風貌。 京都守護職の貧乏くじを引いて賊軍のシンボルにされた会津藩主松平容保は品のよいお公家さんのような顔立ちである。 近藤勇はえらの張った頑固な田舎者風。 土方歳三は眉目秀麗、まるでやさ男の二枚目俳優である。 泣く子も黙ると怖れられた新撰組副長とは思えない。 山岡鉄舟はいかにも剣豪風、がっしりして強そうに見える。

 おしなべてこの頃の人達の風貌はきりりとしまりがあって、今どきの日本人より良い顔立ちをしている。 収められた写真が藩主や志士などエリートの武士階級だからだろうか。 しかし同じ写真集に納められている西南戦争で戦った薩摩藩の無名武士達の写真を見ても、いずれも覚悟を決めた男らしい決然たる風貌で、決して上級エリート武士だけの特徴ではない気がする。 明治10年、西南戦争のはじめ、熊本城下延岡で撮られた薩軍兵士野村盛賢の写真を見ると、刀を腰に屹然とした姿勢、射るような鋭い眼差し。 まるで映画「ラストサムライ」に出てくるサムライそのものである。 現代人ももう少ししまりのある顔にならなければ駄目だな。

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