【伝蔵荘日誌】

2005年3月15日:アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」を読む。 T.G.

 もう彼岸なのに寒い日が続く。 「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」、が母の口癖だったと正岡子規が書いている。 句聖の母らしく、そのまま五七五の俳句になっているのが面白い。

 アーネスト・サトウはイギリスの外交官で、幕末から明治にかけて日本に滞在した。 イギリス公使パークス卿の配下で日本中を飛び回り、幕末の志士から一介の庶民に至るまで、多くの日本人と親交を深めた。 この書には彼の見聞きした幕末の様相が克明に記されている。 語学の達人で、日本語の日常会話はなに不自由なく、候文から漢文公文書の英訳まで自在だったという。 例えば大政奉還後の明治元年、天皇から各国代表に示された通告書は漢文で書かれていたが、サトウ以外の各国通訳は誰も読解できなかったという。
 本書の中で、徳川慶喜を“ヨシノブ”ではなく“ケイキ”と通称し、“ヨシノブ”は“慶喜”の訓読みだなどと書いている。 これを読むと当時の日本人も通常は慶喜をケイキと呼び合っていたことが分かる。 ほかにも“幇間”とか“頭隠して尻隠さず”などと言う下世話な物言いがしばしば出てくる。 原文では何と訳しているのだろうか。

 維新直後の元年2月、長州藩の下級武士伊藤俊輔(後の博文)が神戸の関税管理者兼知事に任命される。 サトウはかねて伊藤と親交があった。 よく知られているように伊藤はロンドン帰りで英語が話せる当時としては数少ない武士の一人である。 サトウは、維新騒乱直後の神戸で、伊藤のような身分の低い武士がこのような高位の地位に座り、一般の人民がそれにただちに服従することを大いに不思議がっている。 日本滞在経験から得た彼の結論は、「日本の人民は支配されることを大いに好み、権能を持って臨むものには相手が誰であっても服従する」、と言うことであった。
 当時の権能者とは武士階級を指す。 サトウはさらに、「もし両刀階級(サムライ)を日本から追い払うことが出来たら、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかっただろう」、と書き、加えて、「しかしながら、この国にはサムライがすこぶる多いので実現不可能だ。」、と言っている。
 サトウは日本のサムライを大いに評価し、尊敬すらしていた節がある。
  日本人民についてのサトウの観察眼の正しさは、77年後の昭和20年8月30日に見事に実証される。 直前まで鬼畜米英を叫び狂奔していたすべての日本人は、新しい権能者マッカーサーがコーンパイプをくわえ、レイバンのサングラスを掛けて厚木の飛行場に降り立つやいなや、直ちに服従し、反抗の気配すら示さなかったのだから。
 アメリカはこの時の世にも不思議な経験を世界共通の普遍性と取り違え、その60年後にイラクで手痛い目に遭う。

 それにしても、今も変わらぬ日本人の権能者への服従の性は、美点なのかはたまた欠点なのか。 そろそろ考え直してみる必要がありそうだ。

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