【伝蔵荘日誌】

2004年12月25日: 陸軍上等兵の従軍日記を読む  T.G.

 新潟県新発田歩兵第十六連隊茂沢祐作上等兵の日露戦争従軍日記を読む。 明治三十七年二月、開戦に伴い戦地に出征、終戦後の明治三十八年十二月に復員除隊した。 その間毎日欠かさず従軍日誌をしたためている。 三月二十二日宇品港を出港、同二十六日朝鮮鎮南浦に上陸。 四月三十日に鴨緑江を渡河し満州へ進軍している。 鎮南浦上陸時の日誌は次のように書かれている。

「三月二十六日。 午前九時、いよいよ上陸して海外の異域に足を入るることとなった。 上陸前もその異彩に驚かぬでもなかったが、上陸して実際に驚いたのは意外に不潔で、兼ねて聞かぬでもなかったが、こんなだとは想像できなかった。 臭気紛々鼻をうち、道路は泥濘にしてその破損に任せ更に顧みることなく、白木綿の衣服はごび(寝ても覚めても)共に更えることなく、口より煙草を離すことなく、途上行き違うと一種言うべからざる香りを放つ。 家屋はほとんど燕の巣のごとく、木の柱を若干元として土を塗り、中には靴脱ぎも寝室も食堂も兼ねている一間あるのみ。 床も皆土作りにてその下に炊焚の煙を通し暖炉の如くしてあるが、空気の流通は尤も悪しく、窓より首を入るるや実に吐瀉を催さんばかり。 古昔の穴居にやや羽根を生じたぐらいの野蛮極まる生活の常態である。 糞尿は無論付近に垂れ流しで、只灰をかけて或る一所に集積しておき、肥料に用いるものなるが、その不潔とその臭気は実験者以外に想像は行き届くまい。」

 明治37年と言えば日本もまだ貧しいアジアの後進国に過ぎない。 その貧しい国の、貧しい農村地域出身の兵隊から見ても、当時の朝鮮は目を覆わんばかりの貧しさだったことが分かる。 この6年後の明治43年に日本は朝鮮を併合している。 後年いろいろの説があろうが、このような極貧状況にある国を併合することは、経済的観点に立つ限り日本にとって何の利益もなかっただろう。 当時の朝鮮は鉄道、電力、水道などのインフラは皆無で、学校はおろか全国的な義務教育制度も無かった。 併合後日本がなけなしの資金を持ち出して作った。 西洋の植民地経営の如く搾取すべき富も無く、搾取する意図も無かったのに、70年近く経った今でもその非を責められる。
 実に割の合わぬ馬鹿なことをしたものだ。


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