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【カラパタール初体験記:その4−ペリチェの診療所】

 4時間歩いて高山病診療所のあるペリチェに到着。標高4270m。ロブチェから650m下ったことになる。高山病の特効薬はとにかく低いところへ降りることだという。早速ヒマラヤで有名な高山病診療所を訪れる。この診療所は東京医科歯科大学が設立したものだが、この時はイタリア人の男子医師と女医の二人が駐在していた。すぐさまパルスオキシメーターで計る。80を切っており、熱が37.8度ある。血圧も通常より高く、酸素吸入、薬の投与、即入院となる。入院と言っても、掘っ立て小屋の医療器具や薬品が散乱した狭い部屋に、小型の簡易ベットがあるだけ。私を入れてベッドは3人で満員。一人は床に寝かされていた。患者は他にネパール人のポーターとヨーロッパ人。彼は単独行らしい。ヒマラヤに限らず、旅先での入院も初体験である。…8号。【写真はトゥクラからペリチェを見下ろす。後方の山はアマダブラム】

 最初に医者の問診を受ける。"When were you born? "と聞かれ" 、I was born in 1940,20th of…"。 とここまでは良かったがその次がなかなか出てこない。なんとJulyというべき所をSeven と答えていた。頭も高山病だったらしい。それを聞いて医者は付き添っていた後藤君に"Is he confused? "とか聞いていた。
(後藤注:高山病の初期症状は運動失調と意識レベルの低下に現れるという。医者は定法に従いまず始めに佐藤君にタンデムウォークをさせた。ふらついてよろけてしまう。その後の問診で既往症について質問したとき、彼が思い出せず返答をもたついていると、私の方を向いてそう聞いた。"He can't remember, so that may be nothing."と答えたが、明らかに意識レベルの低下を認めていた様子。)

 ここからカトマンズのヒマラヤンジャーニーに電話でレスキュウヘリを要請。ここで判明したことだが、いくら遭難救助保険に入っていても、最初の支払いは立て替え払いが原則である。支払い能力の保証人がカトマンズにいなければヘリを出してくれない。現金で35万円持参していれば別だが。ヒマラヤンジャーニーは我々が保険に入っていることを承知しているので、直ちに保証人になり、翌朝ヘリを飛ばしてくれる手筈が着いた。旅行費を節約しようと現地の代理店をカットすると、万一の場合困ることになると痛感。

 (後藤注:診療所の衛星電話は品質が悪くなかなかつながらない。つながってもこの日はお祭りで、ヒマラヤンジャーも含めトマンズのオフィスはどこも連絡が取れない。諦めてラクパと相談し、ポーターを雇って佐藤を担いで下ろすことに決める。ポーターは1日数百円で雇えるという。2〜3人雇えば何とかなるだろう。病室に戻ってそのことを佐藤に言うと、あくまでヘリで降りたいという。相当参っている様子。何度もトライしてるうちに、何とかカトマンズのラクパのボスに連絡が取れ、ヘリの手配がつく。こういう緊急措置もラクパのような頼りになる現地シェルパが付いていたからだろう。)【写真はペリチェ診療所上方に聳えるからアラカンツェ(6423m)、左方からチョラ氷河のモレーンが流れ下っている。】

 テント泊の皆と別れ一人診療所に入院。美人女医に手厚い看護を受ける。夜中にこの女医が私のベッドを訪れ、優しく起こされたときには、頭が混乱していて何のことかしばらく訳が分からなかった。夢に美女が現れたのかと錯覚した。単に薬を持ってきてくれただけだったのだが。

 翌朝入院費の支払い。72,000円。(後藤注:医者の説明では一晩中吸入を受けた酸素料金が高額なのだと言う。)日本人にはさほどでもない金額だが、一緒に入院している現地ポーターには支払い不能だろうと心配していたら、ネパール人は特別料金で安いとの事。日本人が設立した診療所である。日本人も特別待遇を受けて然るべきと思うが、施設の維持がやっとらしく、地元民のお産や獣医の仕事までも手伝い維持しているらしい。【写真はペリチェ上方から見上げたアラカンツェ(6423m)とタボチェピーク(6367m)】

(後藤注:背の高いハンサムな医者と美人でてきぱきした女医さんで、シーズン中ボランティアのような形で駐在しているという。聞くと患者はシーズンを通して500人を下らないという。報酬は知らないが、若いのにこんな山奥で頑張っている。実に偉い。佐藤の隣で酸素吸入を受けていた白人はオーストリア人の単独行。佐藤のようにカトマンズに保証人がいないからヘリを呼べない。翌朝佐藤君をヘリで下ろした後、医者が我々のテントサイトに来て、彼を一緒に連れて行ってくれないかとラクパに頼んでいたが、ラクパは丁重に断った。残る5人のバラサーブの世話で手一杯だから仕方ない。それにしてもあの哀れなオーストリア人はあの後どうしたのだろうか。)

 翌23日の早朝ヘリが迎えに来てくれた。ヘリに同乗して来たのは大河原さんの息子さん。風貌がほとんどネパール人に見える上に、とても日本語がうまいので、「あなたの日本語は上手い。どこで習ったのですか」などと馬鹿な質問をしてしまった。ヘリまでジェッターが背負ってくれた。歩けるからと断ったが、医者も「背負われて行きなさい」と言う。ここでもまた背負われる。

 今回のことで特別お世話になったラクパ氏には、パルスオキシメーター(最初にヒマラヤに来るときに5万円で購入)を、ジェッターにはヘッドランプ(彼はヘッドランプを持っていなかった)を贈った。今後5000mを越える山には来ないので、パルスオキシメーターは不要である。使用したのは3回のトレッキングと別の機会にゴーキョピークに登った桜君に貸したときの計たった4回の使用であった。【写真は佐藤を乗せて離陸するヘリ。背後にクーンブ谷の峰々が見えている。】

【その5に続く】