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【カラパタール初体験記:その3−敗退】

 10月20日、ディンボチェで2日停滞するも風邪回復せず。高山病も悪化。ロブチェのへの緩い登りに息が切れる。標高はすでに4500mを越えている。皆の倍の呼吸をしても酸素を取り込めず何度も休む。このころから肺水腫特有の症状が出始め、肺の表面に薄い水の膜がかかり、酸素を取り込む能力が半減したらしい。途中トゥクラにさしかかると、エヴェレストで遭難したシェルパたちのモニュメントが立ち並ぶ場所がある。ここからクンブ氷河のモレーンの末端、高度差300mの登りが一番こたえた。休み休みやっとの事で標高4920mのロブチェに到着。

 夜テントの中で測ってみると、酸素の血中濃度を示すパルスオキシメーターは80以下に下がり、時々70を切ることもあった。高山病マニュアルには70を切ったら生命の危険があるから即下山とある。食欲も全くなく、むりやり雑炊を飲み込みやっと喉を通す。夜は咳が止まらず、寝付けない。うとうとするうちに朝を迎える。【写真はトゥクラからロブチェ・イースト(6090m)】

 10月21日4時起床。真っ暗な中、カラパタールへ向けてヘッドランプを点灯して歩き出す。気温は零下15度を下回っていてとにかく寒い。平坦なルートなのに1キロも進まないうちに呼吸困難になる。ラクパに奨められて初めて酸素というものを吸う。毎分0.5〜1.0リッター。初体験6号である。酸素を吸えば急に元気になると思ったが、最初のうちは何とも感じない。逆に酸素を止めると息苦しくなる。酸素ボンベは約4kgある。背負っているザックは水1kg。カメラと望遠レンズ合わせて1.5kg。その他衣類など合計4kg位か。これに酸素ボンベを持つのかと心配していたが、すべてシェルパが持ってくれて、ここからは空身。それでもゴラクシェップへの途中で歩けなくなり、やむなく皆と別れ単身ロブチェに引き返すことにした。高度計はちょうど5000m。若いシェルパのハルカライズに付き添ってもらいテントに戻る。テントでは絶対に眠らずに目を覚ましているようにとラクパ氏にきつく言われていたが、ついまどろんでしまう。寝ると自発呼吸が出来なくなり、高山病症状が悪化するらしい。【写真はカラパタール頂上からエベレストとローツェ】

 そのうちラクパ一人が先に帰還。「2時間後には全員到着する。カラパタール・サミットに到着したのは4人だけ」という報告を聞く。今日中に下へ降りたいかどうか聞かれたが、明日皆と一緒に降りることにする。

 夜、咳が止まらず眠れない時にすぐ酸素を吸えるように、シュラーフの脇にボンベを置て寝る。夜中に起きてはコックを開けて吸い、咳が収まるとコックを閉め、又咳で目覚めては吸う。何度もこれを繰り返ししているうちに夜が明けた。酸素を吸わなかった昨夜よりは幾分眠れた感じがする。

 10月22日。今日から下山開始。下りはいつもより速度は遅いが何とか歩ける。しかしちょっとした登りにかかると途端に呼吸が苦しくなる。休み休みやっとの思いで登る。途中急な登りで休んでいると、ラクパ氏がシェルパのジェッターに背負えと指示。記憶にはないが、幼い頃お袋に背負われて以来、他人の背中に背負われたのは初めてのこと。初体験7号。

 シェルパの足腰は実に大したもの。60キロを背負ったまま上り坂ををぴょんぴょん跳ぶように歩く。途中交代でラクパ氏にも背負われた。記念に写真を撮ってくれと言ったが、皆遠慮してシャッターを押さない。
 (後藤注:武士の情けというもの。ペリチェの手前のロッジでヨーロッパの連中が面白半分で背負われた佐藤にカメラを向けると、「やめろ。自分だったらどんな気がする!」とラクパが大きな声で制止した。実に男気のある好青年だ。)

 途中ロブチェからラクパ氏の弟が付き添ってくれた。彼は仕事の関係で衛星電話を持っていて、どこでも連絡が付くとの事。彼とはタンボチェの登りで出会い、2年前会いましたねと挨拶を交わした後ナムチェに下りて行ったが、いつのまにか我々より先にロブチェに着いていた。多分彼らシェルパ連中は我々の何倍もの速さで歩くのだろう。お礼を言うのを忘れてしまったが、ペリチェに着くとすぐさまロブチェに引き返して行った。ナムチェに奥さんと娘がおり、イタリアプロジェクトのアンテナ工事サポートのためロブチェに滞在しているとのこと。

【その4に続く】