伝蔵荘ホームページ チョモランマBC             【チベット紀行: ラサからチョモランマBCへ】

【チベット紀行−その1 ラサへ】

・メンバー:松木、佐藤、後藤(3期)、及川(4期)、藤田(5期)
・期間:2005年10月14日〜28日
・行程:(成都→九寨溝→成都)→ラサ→シガツェ→シガール→トン・ラ峠→シガール
     →パン・ラ峠→ロンブク→チョモランマBC→ロンブク→シガツェ→ラサ
     (ラサへ入る前に観光旅行した九寨溝は割愛)

旅の目的

 ここ4年ばかりヒマラヤトレッキングにはまっています。昨年10月にはクーンブ山群のカラパタールまで行きました。この山群で最も有名な山はご存じエベレストです。カトマンズから小型飛行機でルクラまで行き、そこから歩いて10日の所にエベレストベースキャンプがあります。カラパタールはクーンブ氷河を隔てたエベレストの対岸にある5500mほどのピークで、エベレストの展望台として有名です。ここまで登って、エベレスト、ローツェ、マカルーなど、世界一の山岳風景を堪能しました。次はこの山々を裏側のチベット側から見てみよう、と言うのが今回の旅の最大の目的です。

 河口慧海は明治時代の革新派僧侶です。大乗仏教の本流である中国伝来の仏教書や、その源流であるインドの教典は、時代を経てすっかり変化してしまいました。慧海は仏教の最もオリジナルな信仰形態や教典がチベットに残っていると確信し、研究のため幾多の困難を乗り越え単身チベットに潜入します。今から百年前の明治33年、日清戦争の5年後のことです。当時のチベットはイギリスの侵略や清国の圧力を何とか排除し、鎖国状態にありました。インドや支那からの入国は不可能なので、比較的国境警備の手薄なネパールから標高5000mのヒマラヤの峠を越えて決死の密入国をしています。ろくな装備も食料も持たず、数千キロを徒歩で辿ってラサに到り、2年間滞在しました。そのときの有名な彼の旅行記には、まだヒマラヤ登山が行われていなかった頃のヒマラヤやチベット奥地の風景が活写されていて、山好きにはたまらない一冊です。慧海が歩いたチベットをこの目で見てみたいと言うのが旅のもう一つの目的でした。

ラサへ

 四川省成都から飛行機で2時間、東チベットの山岳地帯を越えて標高3600mのゴンカル空港に下り立つと少し目眩いがします。ここはチベットでは比較的低地なのですが、それでも富士山とほぼ同じ高度です。景色は一変し、樹木も生えない赤茶けた岩山が周囲を取り囲んでいます。奥地に比べればこれでも緑が多い方だということを後で思い知らされました。 出迎えのチベット人ガイドのYさん”が我々を見つけると、チベットの習慣で白いスカーフを首に巻いて歓迎してくれました。朗らかな人柄で日本語もうまく、日本人とそっくりな風貌です。

 空港からラサ市内までは約100キロ。チベット一の大河ヤルン・ツァンポに沿って車は走ります。悪名高い成田空港よりさらに遠い。土地はいくらもあるのに、なぜこんな遠いところに空港を作ったのか不思議です。それでも車が断然少ないので、予定通り1時間でラサに着きました。途中、外国人観光客を乗せたバスが我々を追い抜き、運転手が大声で何か叫んでいます。車を止めて聞くと、旅行者の一人に高山症状が出たので酸素ボンベを借りたいとのこと。高山病に罹る観光客が少なくないので、このあたりの観光客向け車両にはたいてい酸素ボンベが載せてあるのだそうです。この観光客はホテル到着後ロビーで2時間ぐらい酸素吸入を受けていました。その後このご婦人はどうしたのでしょう。 3600mでダウンしていたらこの先に進むのは難しい。なにせこれより奥地は平均高度4000〜5000mのチベット高地が延々と続くのですから。

ラサ観光

 空気中の酸素量は500m高度が上がる毎に4%ダウンします。標高5000mでは低地の半分しかありません。体調や個人差もありますが、薄い空気は体を慣らすしかありません。いわゆる高所順応です。翌日は高所順応を兼ねて終日ラサ観光です。さっそく有名なポタラ宮に出かけました。

 ポタラ宮はチベット人の崇拝と信仰のシンボル、歴代ダライラマの居城です。ダライラマはチベット仏教の最高指導者でありかつチベットの最高指導者です。現在のダライラマ14世は1950年の人民解放軍ラサ侵攻直後インドに亡命しました。今ではポタラ宮にはダライラマの肖像など、痕跡は一切残っていません。侵攻した中国政府によりすべて抹消されてしまいました。チベット人の信仰と崇拝のシンボルであるポタラ宮前の広場に、中国政府が建てたチベット解放記念の巨大なモニュメントが対峙しています。どういう神経で中国はこのようなものをポタラ宮の真ん前に作るのでしょう。日本で言えば、さしずめ敗戦直後の靖国神社の真ん前にアメリカが戦勝記念碑を作るようなものです。

 ついで大昭寺(ジョカン)を訪ねました。大昭寺はいわばチベット仏教の総本山です。信仰心の厚いチベットの人達は、一生に一度このお寺にお参りするのが念願なのだそうです。交通機関など皆無の奥地から、何百キロも徒歩でやってきます。門前にはチベット中から集まってきた大勢の信者達が熱心に五体投地を繰り返していました。五体投地はチベット仏教独特のお祈りの仕方で、文字通り五体を地面に投げ出すことを繰り返します。この祈り方を何万回も繰り返しながら何百キロを歩き通すのだそうです。実に信仰心の厚い人達です。

 ここにもかってはダライラマのモニュメントがいろいろ祀られていたそうですが、同じく中国政府がすべて撤去してしまいました。屋上の休憩室にはパンチェンラマの肖像と、こんなお寺には不似合いな江沢民主席の写真が飾られていました。チベット人ガイドのYさんが、実に悔しそうな口調で我々にそのことを説明してくれます。おそらくチベットの人達に共通した心情なのでしょう。

チベット人の衛生観念

 ラサのような都会は別として、一般的にチベットの人達は沐浴の習慣がなく、生まれてから死ぬまでほとんど風呂に入らないと言います。体中に垢がこびりついて黒い肌をしています。大昭寺の人混みを歩いていると異様な臭気が立ちこめています。バターの灯明が燃える匂いとチベット人の体臭がない混ざった臭いです。4、5人の若いチベット娘とすれ違った時、異様な垢の臭気が鼻を突きました。彼女らはどうやって恋を語るのでしょう。

 100年前チベットに潜入した河口慧海は、外国人と分からぬようチベット人になりすまし、ラサ目指して旅を続けました。疑われないためにチベット人と同じ食事をし、沐浴したり顔や手足を洗ったりしなかったと言います。白い肌のチベット人などいないからです。その慧海ですらチベット人の汚さには閉口したようで、「チベット人は排便をした後尻を拭かない。彼らが一度も洗ったことがない汚い手でこねてくれたツァンパは食べる気がしなかった」、と旅行記に書いています。ツァンパは麦焦がしにバターと塩を混ぜてこねたチベットの代表的な料理で、慧海はこのツァンパが大好物でした。これさえあれば他の食べ物は要らないと言うくらいに好んでいたようです。その彼が閉口するのだからよほど汚かったのでしょう。料理屋で出されたものを食べてみましたが、あまり美味しいものではありませんでした。

【その2へ続く】