+螺 旋(らせん)+

【1】



何度目かのため息が部屋を包み込む。

カチカチ。壁に備えられた時計が律儀に正しい時を刻む。
そんなささやかな音でさえも神経に触るほど、気持ちは昂ぶっていた。

針はとっくに真夜中を指していた。
光を最小限に絞ったランプ。
暗いのでよく見ることは出来ないが、設えられた机は華美ではない。
が、年代物なのだろう。かなりな重厚感を漂わせていた。

そんな重厚さに負けないぐらい、いや凌ぐほどの威厳を放って有り余る程の人物。
眉間の皺は重ねた年輪・・・のせいではないようだ。

コツコツ。机を叩く優美な指は、淡い光の中で驚くほど白く溶ける。
だが美しさとは裏腹に、その動きは時計の正確なリズムを見事にかき乱していた。


躯は軍の会議室に詰め、一人チェス盤を前に思案中だった。
無論、こんな真夜中にゲーム目的で駒を動かしているわけではない。
ここにチェス盤があるという事実を知っているのは、躯のみであろう。


バラバラバラバラ!!!

静寂を突き破る。躯の手に払われた駒達は、ある物は盤の上に横倒しになり
ある者は無残にも机の上から転がり落ちた。


転がった黒のキングをひょいと拾い上げ、定位置に据える。

「もう一回・・・。これが黄泉・・・と。」

「オレはここ、だろ。」

白のキングは黒のキングの正面に据えてみる。
一瞬その美麗な眉をしかめるのも忘れなかった。

躯は対黄泉軍への戦略を立てている真っ最中だった。
白は躯軍。黒は黄泉軍。雷禅を勘定に入れる必要はほとんどゼロだ。

雷禅の息子とか言うあのガキ。雷禅亡き後にこちらに取り込むことも考えたが、
誘っても堕ちる可能性もまたほとんどゼロに近いだろう。蛙の子は蛙だ。
かと言って向かってきても脅威にすらならない。駒にする価値もない。

それから悪名高い元盗賊、妖狐蔵馬。こいつの性質をどう見抜くかが一つの鍵だ。


相手は智謀知略の黄泉。いくらイケ好かない奴だからって、その実力は過小評価はしない。
躯軍・・・というと力こそが総て、がルールのように受け取られているし、
事実そうであるが、それだけでは乗り切れない局面も出てくる。
策略は苦手だ。しかし正面切って乗り込むにもそれなりのやり方がある。

横に置いた、各軍主力メンバーのデータ表にちらと目を走らせる。
これはあくまでも個々の平均値。
勝敗を左右するのは、「決断力」だ。場の情勢を見極め、いかに早く決断をするか。
その為にはやはり事前に敵を見極め、あらゆる事態を想定しなければならない。
決断を下すのが主の役目。あの若造には意地でも負けるわけにはいかない。

こんな所を部下が見たら驚くだろう。あの躯サマでも策を練るのか、と。
正直感覚とカンで勝負するほうが性に合っているのだ。
だから部下にもそう思わせておこう。その方が何かと楽だ。

実は不慣れなことをやっているせいでもう何時間もチェスでお遊び状態なんだからな・・・やれやれ。

黒のビショップ(僧正)を手に取り、黒キングの斜めに配する。
それに対する白は・・・。


コツコツコツコツコツ
コツ。


叩いていた指が不意に止まる。

「飛影・・・。」
漏れた呟きはあまりに小さすぎて部屋の闇にかき消される。

「貴様の身体をどうこう思ったこともない。」
今思えば乱暴な言葉だが、飛影が自らの言葉で語った躯への想い。
それを裏付けるような力強い抱擁、深い口付け、熱い身体・・・。
あれから、あのシーンを幾度リフレインしてきたことだろう。
そしてその度に熱に浮かされたような気持ちに酔う。

酔っていられるのは・・・自分に都合の良い部分しか再生しないから。


現実は違った。結果的には強く強く拒んでしまったのだから。
飛影を。


ナンバー2になった彼は、今では常に躯の隣に居た。
以前のようにあからさまに無視を決め込むことはなくなったし、
必要な事であれは普通に言葉を交わした。
しかし、あの時の事は二人の間で一切語られることはなかった。

薄膜一枚で隔てられたような妙な感覚。
いつでも触れられる距離にいながら、慎重に言葉を選び、喋る。
互いが互いを意識しすぎるが上に、過敏になり前に進めない。
事態はより深い迷宮に迷い込んでしまったように複雑に絡みつく。
解き方は・・・分からないでもないのだが。
きっかけさえあれば、と思いつつズルズル過ごすままになっている。



「ああーーーーっ、やめだ、やめっ!!!」

バン!!!と想いを振り切るように、立ち上がるとランプを蹴り飛ばして消し・・・。




夜中の見回りをしていた奇淋は、突然隣の会議室のドアが開けはなれたのに驚き、
手に持っていたランプを手近に放り出し、瞬時に臨戦態勢を取った。

だが、ランプの明かりに映し出されたのは、女神と見まごう程の麗人。
手を伸ばせば儚く消えてしまいそうに、頼りない。
長く仕えてきた主に対し、こんな印象を持ったのは始めての事だった。

「躯様!・・・失礼致した。」

それにしてもこんな遅くまで会議室に詰め、何をしていたのだろう?
普段ポーカーフェイスを決め込んでいる奇淋の顔にもさすがに疑問符が浮かんだ。

考え事をしているのか、いまいちぼけっとして目の焦点が合っていない。

「躯・・・様?」

ぴく!と身体が跳ね上がり、今気づいたとばかりの表情。

「あ、ああ。見回りか。変わりはないか。」

「は。一通り回りましたが、異常ありません。」

素早く跪き臣下の礼をとる。何百年前から変わることのないその所為に
思わず目を細めてしまう。ナンバー3に降格となっても全く変わることがなかった。
無論、躯にとっては「降格」という意識は全くない。当の本人はどうかは分からないが・・・。


「そうか。ついでに頼みがあるんだが、アナテーゼを調達してきてくれ。」

久しぶりの命令だった。以前はこんな風に良く頼まれたものだが。

「躯様、眠れないので・・・?」

アナテーゼとは薬の一種で、人間界でいえば睡眠薬、といったところだ。
躯の不眠症はかつては日常茶飯事であり、よくアナテーゼを渡してやっていたものだ。
普通の妖怪であれば、数日は確実に起き上がれない程の強い薬である。

強い妖怪であるほど、自身の睡眠をコントロールできる。
目を開けたまま寝ることが可能だったり、数分で深い眠りを取ることが可能だったり。
魔界はどこに居ても戦場であり、効率良く身体を休められるかどうかは死活問題なのだ。
躯の弱点はどこか、と問われたら、かつての奇淋であったら真っ先にココを突くだろう。
躯は体力において他の三巨頭において劣るくせに、睡眠の制御ができない、と。


「時雨殿の所に赴き、至急お持ちしますゆえ暫くお待ち下さい。」

立ち上がろうとした奇淋の足元に、何か白いものが当たった。

「これは・・・?」

奇淋が拾い、差し出したのは。
チェスの駒。白いナイト(騎士)の駒だった。

「ちょっと散歩をしてくる。」

奇淋から駒を受け取けとり、無造作にポケットに突っ込むと、いつもの機敏な足取りで
立ち去って行った。



躯は自分が無意識にナイトを持ち出していたことに今気づいた。

「騎士・・・って柄でもないだろうに。しかも白だしな。」

想像して、くくく、と忍び笑いが漏れる。



一方奇淋は、今しがた躯が出てきた会議室をこっそり覗き込んだ。
幸い鍵はかかっていなかったのですんなり入ることが出来た。
そこには見慣れないチェス盤。数々の駒があちこちに倒れていた。
騎士の駒だけが行方不明のまま。





その頃飛影は百足の上に居た。

断続的に襲ってくる眠気と闘っている最中だった。
頭を激しく振って耐えようとする・・・がその間にも瞼が下りてきてしまう。
今眠ったら奴らの思うツボだ。眠るわけにはいかない。
ぎりぎりと己の膝に爪をつきたてて痛みを煽っても、大きな渦に飲み込まれる。


ナンバー2になった途端、飛影への周りの圧力は以前にも増して強くなった。
実力は上でも長らく勤めてきた奇淋に、実質的には早々とって代われるものでもない。
納得させるには、何よりも彼らを抑えるだけの力が必要だった。

だが、躯軍幹部はいづれも百戦錬磨の戦士ばかりだ。
特にナンバー2が交代になってからは、これ幸いとばかりに幹部が手を組み、
集団で飛影に襲い掛かってくるようになった。正に手段は選ばない、というやつだ。

飛影としても生半可な闘い方であしらえる相手でもないので、
どうしても炎の妖気を使わざるを得ない。先程も黒龍派を続けて二連発撃ったばかりだ。
かなりなダメージを与えた筈なので、しばらくは起きて来ないと思うが、油断は禁物。
ここが好機とばかり、寝首を取りにくる奴が必ず・・・いる。

だから今ここで冬眠に入るわけにはいかない。
黒龍派を身につけてからというもの、技は当時とは比べ物にならないほど磨かれたが
この「冬眠」だけは如何ともしがたい難問だった。
全く持って忌々しい。この冬眠さえなければ。

気を紛らわせようと氷泪石を取り出し、眺めることにした。
淡いブルーの光が、荒んだ心を徐々にほぐしていく。
青い・・・光。優しい光・・・。トクンと核が音を立てる。

かつてはこの石に母を見た。妹を見た。だが今は・・・。


アイツの瞳の色と同じ色。
抱きしめて口付けて。その金の髪を撫でてあの熱い吐息を感じたい。
なんだか・・・疲れた。
薄れていく意識は、もう引きとめようがなかった。




反対に眠れない躯は、手っ取り早く外の空気を吸うためにやはり百足の上に出た。

そして視界の彼方に飛影を捉えた。


思えば、こうして二人きりになるのはあの時以来だ。
近づくかそのまま引き返すか。
逡巡したが、意を決して近づく。きっと今夜を逃したら他に機会はないだろう。


と、飛影の頭ががくっと下がった。
どうやら寝てしまっているようだ。
遠目にだが、かなり深く寝入ってしまっているように見える。
道理でオレが近づいてきても気がつかないわけだ。

さて、向き合ったとして一体何をどう言おう。
と想っていた矢先。



!!!!!
刹那、肌がざわめいた。

背中に閃光の如く戦慄が走る!!
と同時に前方で大きく殺気が膨れ上がる。それも複数。
三匹の妖怪が今にも飛影に向かって踊りかかろうとしていた。
どれもこれも良く見知った妖気。
対する飛影は・・・ぴくりとも動かない。


頭で理解するまえに身体は既に軽々と宙を舞っていた。

「飛影っ!!!!」


--「2」に続く---