百、百一。水が青白くなってきて、痛くなり始めた胸を達成感が満たしました。あと何度か水を掻けば、外です。静花の数え方はもうでたらめになっていました。百十五と数え、かなり経ってからまた百十五という数字が頭を過ぎります。水は、もう周りじゅう宝石のような緑色をしていました。その時、頭上の岩に割れ目が走っているのが見えました。日光がそれを通して差し込んできていて、洞穴の黒くすべすべとした岩肌と1匹の二枚貝を照らし出し―そして、暗闇がなお前へ前へと続いているのが見て取れました。
静花はもう限界でした。頭上の割れ目を見上げます。まるでそれが、水ではなく空気で満たされていて、唇をつければ息を吸い込めるとでもいうように。百十五。また頭の中で声がしました。でも、それはずいぶん前に過ぎたはずです。目の前の、暗黒の中へと泳ぎ進んでいかなければ溺れるしかありません。頭がずきずきと疼き、肺が絞られように痛みます。
百十五、百十五―頭の中でその数字が割れるように響き、静花は弱々しく暗闇の中で岩をつかむと、さっきの日光に照らされた小部屋を後にして前へと身体を引きずっていきました。―し、死んじゃう。だんだん意識もはっきりしなくなり、静花は暗がりの中で、意識と失神のはざまでもがき続けました。そして、頭が破裂するようにひどく痛むと、暗闇は緑色の光になって粉々にはじけ飛びました。前に伸ばした手が空をつかみ、掻き続ける両足の力で、身体が外の海へと押し出されます。
静花は、空気のある上方へ顔を向け、水面へと浮かび上がっていきました。魚のように、ごぼごぼと喘いでいました。岩までの数フィートを泳ぎきる力がなく、静花はここまで来て沈んで溺れてしまうかもと思いました。やっとのことで岩をつかんで這い登り、顔を下にして喘ぎ続けます。赤い、固まった血のりの筋の他には何も見えません。―目がはじけちゃった、と静花は思いました。目の中は血でいっぱいで、水中眼鏡を顔から剥ぎとると、中から血がどくどくと海へ流れ落ちていました。鼻が出血して、その血が眼鏡に充満していたのです。
静花は、海から冷たい塩水をすくい取ると、顔に何度もかけました。味わっているのが血なのか塩水なのか、静花には分かりませんでした。だいぶ経って、ようやく鼓動がおさまり目が見えるようになると、岩の上で身体を起しました。地元の子たちが、半マイルほど向こうで跳び込んだり遊んだりしているのが見えます。でも、静花は別に一緒になりたいとは思いませんでした。ただただ、家に帰って身体を休ませたかったのです。
しばらくすると、静花は浜まで泳いで別荘までの径を上っていきました。そしてベッドに身体を放り投げて眠り込み、外の径で足音がするまで目を覚ましませんでした。お母さんが帰ってきたのです。静花は血や涙のあとが見えてはいけないと思い、洗面所に駆け込みました。そして出てくると、ちょうどお母さんが家に入ってくるところでした。その顔が微笑み、目が明るくなります。
「楽しい朝だった?」
彼女は訊き、手をしばらく静花の熱くなった小麦色の肩の上に置きました。
「うん、ありがとう、ママ」彼女は言います。
「ちょっと、顔色が悪いみたいだけど」続けて、勘するどく不安げに訊いてきます。「どこかで頭をぶっつけたの?」
「ううん、何でもないよ」彼女は答えました。
お母さんは静花の顔をしげしげと見つめました。何だか疲れ切っているようで、両目に生気がありません。お母さんは不安になりましたが、やがて一人心地しました。
(心配ないわよね・・・何も起こるはずないわよ、この子ったら、魚みたいに泳げるんだから)
2人は、一緒に昼食をたべました。
「ママ」静花は言いました。「あたしね、2分も水の中に潜っていられるの。ううん、最低、3分間」言葉が、止めようもなくあふれてきました。
「そうなの?すごいわね」お母さんは答えました。「でも、やりすぎは駄目よ。今日は、もう泳がないほうがいいかも知れないわ」
お母さんは意地の張り合いを覚悟していましたが、静花はあっさりと妥協しました。入り江に行くことは、もう彼女にとって、全然関心事ではなかったのですから。
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