その日と次の日、静花はまるで人生と将来のすべてがかかっているかのように、肺をきたえつづけました。その夜はまた鼻血がひどく、翌日、お母さんはその日は一緒に来るように強く言いました。念入りの自己訓練のための1日を失うのは、とてもつらく思いましたが、静花は仕方なくもう一方の浜辺でお母さんと過ごしました。こちらの浜辺は、もうちいさな子供たちの遊び場のような、お母さんがゆっくりと日光浴をするための場所のようで、自分がいるべき所ではないような気がしました。そのまた次の日、静花はもう入り江に行くとお母さんに断るのをやめました。お母さんが、行かせることの是非をあれこれと考える前に、出て行ってしまったのです。驚いたことに、1日休んだことで静花は息を10秒も長く止められるようになっていました。あの少女たちが岩の中を通過するまでに、静花は160数えました。でも、あの時は怖くて早く数えていたはずで、今だったら、やれば彼女にも通り抜けられるかもしれません。でも、まだ時期尚早です。不思議な、いささか子供っぽくない慎重さが、静花のはやる心を抑え、待つことを教えていました。その代わりに、静花は水中でいまや自分が上から持ち込んだ重石が散らばっている白い砂の上に横たわり、あの洞窟への入り口を観察しました。もうあらゆる角や出っ張りが自分の掌を指すように分かっていて、その鋭さを肩に感じることができる気さえしました。
 静花は、お母さんがそばにいないすきに時計の前に座り、自分の閉息時間を計って見ました。
 なんと2分間も苦しく感じずに息を止めることができたので、驚き、そしてとても嬉しく感じました。そして時計が立証してくれた「2分間」という言葉が、あのやらなければならない冒険がもう近いことを教えてくれました。
 ある朝、4日後にはここを発ちましょう、とお母さんが気軽な調子で言いました。ならば、決行は帰る前日です。たとえ死んじゃっても、やるんだから―静花は、きっぱりと自分に言い聞かせました。でも、帰郷の2日前、息こらえの時間を15秒も延ばすのを達成したまさにその日は、あまりにも鼻血がひどかったので静花は頭がくらくらして、海草の切れはしのように大岩にぐったりと横たわってしまいました。流れる血が赤く太い筋を作って、岩の下の海へとぽたぽたと垂れていくのを眺めます。―怖い、と静花は思いました。もし、洞窟の中で気が遠くなったら。もし、出られなくなったら。死んじゃう。もし。暑い日差しの中で考えがぐるぐると巡り、静花はほとんど諦めかけました。―お家に帰って、休もうかな。そして、来年の夏、身体が一年ぶん成長したあとで、またあの洞窟に挑めば―。
 でも、そう心に決めた後でも、あるいはもう決めたと思った後でも、静花はまだ岩の上に座って、下の海面を眺めている自分に気が付きました。―今。鼻の出血がやっと収まったばかりで、頭がまだじんじんと痛む今この時が、やるべき時なのでした。今やらなければ、もう二度とできないかも知れません。静花は、海中の、岩の下のあの長い長い空間のことを思い、失敗への怖れで身体ががくがくと震えるのを感じました。開けひろげの陽光の中でも、あの岩壁はとても幅広で巨きく見えます。何トンもの岩が、彼女がこれから行くところの上に圧しかかっています。もしその中で死んでしまったら、ずっとそのままでいることでしょう―あの少女たちが泳ぎ入って、中がつかえているのを見つけるまでは。
 静花は水中眼鏡を着けてきつく合わせると、肌にぴったりと吸い付くのを確認しました。手が震えてしまっています。そして運べるうちで一番大きい石を選ぶと、岩の端を滑り降りて、半身を暑い陽光に、半身を冷たい水の中に浸しました。そして、からっぽの空を見上げると、一回、二回と両肺をふくらませ、石を抱いて海底へとすばやく沈んでいきました。手を離し、数を数え始めます。穴のふちをつかんで、この間のことを思い出して両肩を横にくねらせると、両足を蹴って穴の中へと入り込みました。

       

  静花の身体は、まもなく完全に中に入りました。黄色っぽい灰色の水で満たされた穴の中で、ぐるりと岩に囲まれています。水の浮力のせいで身体が天井へと持ち上がり、尖った表面が背中に当たってきました。静花は、両手で這うように身体を引っ張り、両脚をてこのように使いました。―急がなきゃ、急がなきゃ。何かが頭にぶつかってきて、鋭い痛みで頭がずきずきしました。五十一、五十二…暗く、水は岩と同じ重みで周りから迫ってくるように感じます。七十一、七十二・・・息は、まだ全然苦しくありません。肺は軽く、とても楽なので静花は自分がまるでふくらんだ風船になったように感じましたが、こめかみの方は大きく脈を打っていました。
 身体が、何度も尖ってぬめぬめした天井に押しけられます。静花はまた蛸を思い出し、洞窟の中に身体にからみついてくる海草が生えているのを想像しました。そしてまたあわてて発作的に脚を蹴り、頭を低くして泳ぎ続けました。もう、何もない水中にいるように手足を動かすことができます。穴が広くなってきたのでしょう。―けっこう速く泳いでるんだ、と静花は思い、洞穴がまたすぼまってきた時に頭を打ち付けてしまうのではと心配になりました。

      

 百、百一。水が青白くなってきて、痛くなり始めた胸を達成感が満たしました。あと何度か水を掻けば、外です。静花の数え方はもうでたらめになっていました。百十五と数え、かなり経ってからまた百十五という数字が頭を過ぎります。水は、もう周りじゅう宝石のような緑色をしていました。その時、頭上の岩に割れ目が走っているのが見えました。日光がそれを通して差し込んできていて、洞穴の黒くすべすべとした岩肌と1匹の二枚貝を照らし出し―そして、暗闇がなお前へ前へと続いているのが見て取れました。

              

 静花はもう限界でした。頭上の割れ目を見上げます。まるでそれが、水ではなく空気で満たされていて、唇をつければ息を吸い込めるとでもいうように。百十五。また頭の中で声がしました。でも、それはずいぶん前に過ぎたはずです。目の前の、暗黒の中へと泳ぎ進んでいかなければ溺れるしかありません。頭がずきずきと疼き、肺が絞られように痛みます。
 
    

 百十五、百十五―頭の中でその数字が割れるように響き、静花は弱々しく暗闇の中で岩をつかむと、さっきの日光に照らされた小部屋を後にして前へと身体を引きずっていきました。―し、死んじゃう。だんだん意識もはっきりしなくなり、静花は暗がりの中で、意識と失神のはざまでもがき続けました。そして、頭が破裂するようにひどく痛むと、暗闇は緑色の光になって粉々にはじけ飛びました。前に伸ばした手が空をつかみ、掻き続ける両足の力で、身体が外の海へと押し出されます。


        

 静花は、空気のある上方へ顔を向け、水面へと浮かび上がっていきました。魚のように、ごぼごぼと喘いでいました。岩までの数フィートを泳ぎきる力がなく、静花はここまで来て沈んで溺れてしまうかもと思いました。やっとのことで岩をつかんで這い登り、顔を下にして喘ぎ続けます。赤い、固まった血のりの筋の他には何も見えません。―目がはじけちゃった、と静花は思いました。目の中は血でいっぱいで、水中眼鏡を顔から剥ぎとると、中から血がどくどくと海へ流れ落ちていました。鼻が出血して、その血が眼鏡に充満していたのです。
 静花は、海から冷たい塩水をすくい取ると、顔に何度もかけました。味わっているのが血なのか塩水なのか、静花には分かりませんでした。だいぶ経って、ようやく鼓動がおさまり目が見えるようになると、岩の上で身体を起しました。地元の子たちが、半マイルほど向こうで跳び込んだり遊んだりしているのが見えます。でも、静花は別に一緒になりたいとは思いませんでした。ただただ、家に帰って身体を休ませたかったのです。
 しばらくすると、静花は浜まで泳いで別荘までの径を上っていきました。そしてベッドに身体を放り投げて眠り込み、外の径で足音がするまで目を覚ましませんでした。お母さんが帰ってきたのです。静花は血や涙のあとが見えてはいけないと思い、洗面所に駆け込みました。そして出てくると、ちょうどお母さんが家に入ってくるところでした。その顔が微笑み、目が明るくなります。
 「楽しい朝だった?」
  彼女は訊き、手をしばらく静花の熱くなった小麦色の肩の上に置きました。
 「うん、ありがとう、ママ」彼女は言います。
 「ちょっと、顔色が悪いみたいだけど」続けて、勘するどく不安げに訊いてきます。「どこかで頭をぶっつけたの?」
  「ううん、何でもないよ」彼女は答えました。
 お母さんは静花の顔をしげしげと見つめました。何だか疲れ切っているようで、両目に生気がありません。お母さんは不安になりましたが、やがて一人心地しました。
 (心配ないわよね・・・何も起こるはずないわよ、この子ったら、魚みたいに泳げるんだから)
 2人は、一緒に昼食をたべました。
  「ママ」静花は言いました。「あたしね、2分も水の中に潜っていられるの。ううん、最低、3分間」言葉が、止めようもなくあふれてきました。
  「そうなの?すごいわね」お母さんは答えました。「でも、やりすぎは駄目よ。今日は、もう泳がないほうがいいかも知れないわ」
  お母さんは意地の張り合いを覚悟していましたが、静花はあっさりと妥協しました。入り江に行くことは、もう彼女にとって、全然関心事ではなかったのですから。

           

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