休暇のいちばん最初の朝の、浜辺へ下る
少女がついてきていないのに気がついたお母さんは、振り返ると「そこにいたの、静花」と声をかけ、そして何だかやきもきするように微笑みをつくりました。「あなた、やっぱりママと一緒じゃない方がいい?もしかして―」お母さんは表情をくもらせ、忙しさや不注意のためにこれまで自分の考えがおよばなかったことで、彼女が本当はしたがっていることはないかと一所懸命に考えはじめました。
お母さんのこの不安げな、すまなそうな微笑をよく知っている静花は、きゅうに申しわけなくなって走ってお母さんに追いつきました。でも、走りながらも肩ごしにあの自然の入り江を振り返り、その午前中安全な浜辺で遊んでいるあいだも、ずっと入り江のことを考えていました。
次の日の朝、また普段の海水浴と日なたぼっこの時間になると、お母さんは言いました。
「静花、いつもの浜辺はもう飽きちゃった?どこか、他のところに行ってみたい?」
「え?ううん、別に」静花はあわてて言うと、またこみ上げるように申しわけなくなって微笑みました。この気持ちは、ひょっとして騎士道にも近いのかも知れません。でも、いつもの径を歩いて下りながら、静花はとうとう言ってしまいました。
「あたし、あの岩のたくさんあるところに行ってみたい」
お母さんは注意深く考えました。入り江は様子も荒々しく、それに辺りには誰もいないようです。でも「いいわよ。好きなだけ遊んだら、また大きい浜辺の方にいらっしゃい。そのまま
お母さんは考えていました。あの子はもう大きいんだし、一人でも危ないことはないはずだわ。もしかすると、今まで離さないようにしすぎたのかも知れない。一緒じゃなければいや、なんてあの子が思わないようにしないと。静花は一人娘で、お母さんは未亡人でした。お母さんは、過保護すぎても、愛情が欠けていてもいけないといつも思っていました。そして、まだあれこれと心配しながらも、お母さんは例の浜辺へと向かっていきました。
静花の方は、お母さんが浜辺に着いたのを見とどけると、入り江への急な坂道を下っていきました。今いる赤茶色の岩場から見下ろすと、入り江は白で縁取りされた、ひたひたと動く青っぽい緑のかたまりのようです。そして静花が下りるにつれて、それがするどい岩でできた角やより小さな入り江を包んで広がっていて、波になってたゆたう水面は、そのあちこちが紫や紺に染まっているのが分かってきました。そして、最後の数ヤードを足裏をこすり付けるようにして滑りおりると、白い砂浜の端と、白砂を覆ってきらきらと光る水、そしてその沖の濃い青色の海面が目に入りました。
静花はそのまま海に飛び込むと泳ぎ始めました。泳ぎは得意でした。輝く底砂の上をすいすいと通過すると、岩々が水面下にまるで色彩のないお化けのようになって横たわる中間帯を超え、いよいよ本当の海へと泳ぎ出ました。深みから上ってくる冷たい水流が、不規則に四肢をくすぐってくる温かい海です。
ずいぶん沖合に出てきたので、振り返るとあの小さな入り江だけでなく角ごしに大きい方の浜辺まで見えます。静花は海面にぷかぷかと浮きながらお母さんを探しました。いました。オレンジの皮の一片のようにちいさなパラソルの下で、黄色い粒のように見えています。静花は浜まで泳いで戻りました。お母さんがいるのが確認できて一安心でしたが、同時に、一人ぼっちで急にとても寂しくなってきました。
入り江の、角とは反対側にはちいさな岬があり、大小の岩々がゆるく積み上がっていました。その上で、何人かの少女がちょうど衣服を脱いでいます。岩の上まで、走って下りてきたのでした。静花の方は泳いで近寄っていきましたが、石を投げれば届くほどの距離は保ちました。彼女たちは地元の浜の子で、みんなきれいな小麦色に焼け、少女のわからない言葉を話しています。入れてもらいたい、友達になりたい―強い欲求が静花の全身をみたしました。静花は少しだけ泳いで近づきます。彼女たちは振り向くと、すぼめた黒い眼差しを注意ぶかくむけてきました。そして、一人がほほえんで手を振り―それで十分でした。いくらかもしないうちに静花は泳ぎ着くと岩の上に上り、少女たちの中で必死に、どきどきしながら媚びるような笑みをうかべていました。彼女たちは少女に陽気なあいさつの言葉をかけてきましたが、静花が不安げに、理解できないというふうに微笑んだままのを見て、自分の浜からはぐれてやってきた外国人だということが分かると、しだいに関心をなくしてしまいました。それでも、静花は一緒にいられて嬉しく思いました。
少女たちは、岬の高台の上から、岩の突端の間に青い井戸のように見える海面に向かって、何度も何度も跳び込み始めました。跳び込んで水面まで上がると、泳いで戻って岬によじ登り、また跳び込む順番を待ちます。少女たちは年上で、静花にはみんな大人のように感じました。静花が跳び込むのを少女たちは見ていて、順番の列に並ぶために泳いで戻ってくると、ちゃんと場所を空けてくれています。静花は受け入れてもらえたように感じて、何度も注意深く、誇らしげに跳び込みをしました。
そのうちに、少女たちのうちで一番背の高い子が、身体のバランスを取ると頭から海に跳びこんでいき、そのまま海面に上がってきませんでした。他の子たちは立ったまま眺めています。静花も、その濡れた茶色の髪が浮かんでくるのを待っていましたが、しばらくして注意の叫び声を上げました。でも少女たちはちょっと静花を見ただけで、また目を海の上に戻してしまいます。そして、ずいぶん時間が経ったあと、その少女が大きく黒ずんだ岩の反対側に浮上してきて肺から息を吐き、ごほごほと喘ぎながらも勝ちほこった声を上げました。とたんに、他の子たちも海に跳びこんでいきます。ふいに朝の空気は少女たちの歓声でいっぱいになったようでしたが、次の瞬間、空気も海面もがらんとしてしまいました。でも濃紺の層の下に、手足を掻きながら動くたくさんの黒い影が見えています。
静花も跳び込みました。潜っていって水中の泳ぎ手たちの群れを通り越すと、目の前に迫ってきた黒い岩肌に触れ、そしてあわてて水面まで浮かび上がりました。ここでは岩壁の背が低いために向こうまで見渡すことができましたが、それでも周りには誰も見えません。足下の水の中から、少女たちのぼやけた影はもう消えていました。すると、岩壁のずっと反対側に、一人、また一人と彼女たちが水面に浮かび上がってきました。岩のすき間か穴か何かをくぐっていったのでしょう。静花はもう一度潜ってみましたが、塩水のせいで刺すように痛む両目に入ってくるのは、何もない岩肌だけでした。水面に戻ったときには、少女たちはみんな跳びこみ岩の上にいて、さっきの冒険をもう一度やるための準備をしているところでした。置いていかれちゃった―静花はうろたえてしまい、岩の上に向かって叫ぶと、おろかな犬のように水を叩いてしぶきを上げました。「見て―あたしを見て!」
少女たちは、顔をしかめ気味に、静花を冷ややかな目で見ています。静花にとって、これは初めてのことではありませんでした。何か気まずいことがあって、お母さんの気を惹こうとおどけてみせるときに、お母さんが向けてくるのは決まってこの困惑したひややかな眼差しだったのですから。恥ずかしさで一杯になり、訴えるような笑みがまるで消えない傷のように顔に広がっていくのを感じながら、静花は岩の上の少女たちを見上げて叫びました。「
水がごぼごぼと口に入ってきました。静花は咳き込み、いったん沈んで浮かび上がります。さっきまで少女たちが並んでいた岩は、その重みがなくなったので水の上へとせり上がっていくように見えました。彼女たちは静花を越えて水へと跳びこんでいき、空気はその落ちていく身体で一杯になります。そして、暑い日に照らされた岩の上には誰もいなくなりました。静花は、数を数え始めました。いち、に、さん・・・。
五十まで数えたところで、静花は怖ろしくなりました。足下の、水に満たされた洞窟の中で、みんな溺れているのに違いないのです。百で空っぽの浜辺を見回し、助けを呼ぶべきか考え始めました。静花は、どんどん数える早さを上げていきました―少女たちを急がせ、早く海面まで呼び戻し、早く溺れさせ―何でも良いから、この朝の青い空虚さの中で、ひたすら数を数え続ける恐怖を終わらせるために。そして、とうとう百六十で、岩の向こうの海面は褐色の鯨のように水を噴き出す少女たちで一杯になりました。彼女たちは岸辺まで泳ぎ戻ってきましたが、静花には一度も目を向けませんでした。
静花はまた跳びこみ岩に上ると、両腿の下にその熱いごつごつとした感触を受けながら座り込みました。少女たちは、散らかった衣服をまとめ、他の岬に向かって急いでいきます。彼女を避けようとしているのでした。静花は、両手を目に当てて泣き出しました。そばに誰もいなかったので、涙が涸れるまでわんわん泣きました。
ずいぶん長い時間が経ったような気がしたので、静花はお母さんの姿が見える沖合いまで泳ぎ出てみました。オレンジのパラソルの下の黄色い点―お母さんはまだそこにいました。泳いで戻ると大岩に上り、そしてたけだけしい牙のような岩々の間へと跳びこみました。下へ下へと潜り、また岩肌に触れます。でも塩水のせいで目がとても痛く、静花は何も見えませんでした。
静花は水面に戻ると、浜辺まで泳ぎ別荘まで戻るとお母さんを待ちました。やがて、例の縞のバッグを振り、赤みの差した裸の腕をぶらぶらさせながらお母さんが径を上がってきます。
「あたし、水中眼鏡が欲しいの」強く、懇願するようにあえぎました。
お母さんは、辛抱強く、何か訊きたそうな眼を静花に向けると、気軽な口振りで言いました。「ええ、いいわよ、もちろん」
でも、今じゃなきゃ駄目なの、今、今!あとでではなく、水中眼鏡はいまこの瞬間に必要なのです。お母さんがとうとうお店に連れて行ってくれるまで、静花は何度も何度もせがみました。そして眼鏡を買ってもらえるやいなや、まるでお母さんが自分のものにしてしまうのを恐れるようにその手からつかみ取ると、入り江へのけわしい径をかけ下っていきました。
静花は大きな岩壁のところまで泳ぎ出ると、水中眼鏡を顔に合わせて水に潜りました。でも、水の勢いでゴムと肌の間の真空がやぶれ、眼鏡は外れてしまいました。水面から、岩の根元のところまで潜っていかなければなりません。静花は眼鏡をきつくしっかりと調整すると、肺を空気で満たし、顔を下にして伏し浮きをしてみました。目が見えます。まるで、今までとはちがった、明るい水の中の全てが、はっきりと繊細に揺らいでいるように見える魚の目を手に入れたようでした。
足下6フィートか7フィートのところに、潮で念入りに磨かれた、きらきらと光る清らかな白い砂の水底がありました。2つの、角の取れた木材か石版のような灰色の影が動いています。魚でした。静花は、それらがお互いに近寄ったり、じっと静止したかと思えばさっと前に動いたり、向きを変えたりまた戻ってきたりするのを眺めていました。まるで水の中の踊りのようです。魚の上数インチのところでは、水がスパンコールが舞い落ちるようにぴかぴか光っていました。これも魚です―ほんの爪の先ほどの大きさの、群小の魚たちが水の中を漂い、そしてじきにそれらがつついてくる数えきれないほどのちいさな感触を、静花は自分の四肢に感じました。銀の粉の中を泳いでいるようでした。年上の少女たちが泳ぎ通って行った巨大な黒い岩が、緑がかった海草に密に覆われて、白い砂の上に屹立しています。どこにも割け目は見当たらなかったので、静花はその基部まで潜っていきました。
何度も何度も、浮かび上がって胸いっぱいに息を吸い込み、また潜っていくことを繰り返します。何度も岩の表面を手探りし、入り口を見つけなければという必死の思いから、ほとんど抱きしめるようにしてその凹凸に触れました。そして、黒い岩肌にしがみついていると、とうとう両膝をもち上げて足を前に掻いても何も足先に当たらないところがありました。穴が見つかったのです。
静花は浮上すると、石がごろごろと散乱した岩壁の上に這い登り、その中でも大きい石を見つけ出しました。そしてそれを腕に抱えると、岩のはしを越えて跳び降りました。石の重みで、静花はまっすぐに砂の海底に沈んでいきます。重石にしっかりとしがみついたまま、静花は身体を横にするとさっき足先が入っていった所の岩棚の下を覗き込みました。暗い、でこぼこの割れ目がありましたが、あまり奥までは見えません。静花は重石を放すと、両手で穴のふちをつかみ、身体を中に押し込もうとしました。
頭は入りましたが、両肩がつかえてしまいます。身体を横によじると、やっとウェストのところまで中に入ることができました。前は何も見えません。そして、何か柔らかくべとべとしたものが唇に触れ、黒いヤシの葉のようなものが灰色の岩肌で揺れているのが分かると、静花はとたんにパニックに陥ってしまいました。―蛸?からみついてくる草?身体を後ろに引き抜き、逃げていく静花の目に、洞窟の入り口で無害な海草の触毛がゆらゆらと動いているのがちらりと入りました。でも、もう十分です。静花は陽光のもとに戻り、岸まで泳ぐと、例の跳びこみ岩の上へと倒れこみました。井戸のような海面を見下ろしながら、静花は考えていました。なんとかして、あの洞窟―それとも洞穴なのかトンネルなのかは分かりませんが―を通って、向こう側に抜ける方法を見つけなければ。静花は思いました。―まず、息こらえの練習をしなくちゃ。楽に海の底に留まっていられるように、また大きな石を両腕に持つと、静花は水に跳びこみました。そして数えはじめます。いち、に、さん…規則正しく、数えます。五十一、五十二・・・胸が痛くなってきました。石を放すと、静花は空気をもとめて浮かび上がっていきました。もう日が暮れかかっています。静花が別荘まで急いで帰ると、お母さんは夕食の準備をしているところでした。
「今日は楽しかった?」
お母さんはそれしか訊いてこなかったので、静花は「はい」と答えました。
夜の間じゅう、少女はあの水中洞窟のことを考えていました。翌朝、朝ごはんを終えるやいなや、静花はまたあの入り江に向かいました。
その日の夜、静花はひどく鼻血を出してしまいました。息を止める訓練のために何時間も水に潜っていたせいで、疲れて頭もくらくらしています。「やりすぎちゃ、駄目よ」とお母さんは言いました。
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