ある夜、千早が厨房でいつもの食器洗いをしていると、小母さんがぱたぱたとやや興奮した面持ちで部屋に入ってきた。
「千早ちゃん、電話だよ。お父さんから」
「えっ、父・・・ですか」
当惑が声に現れた。父さんと母さんからの連絡を待っていたのは事実だけれど、どうして今になって急に電話を掛けてくるのだろう。
まさか。
「さ、早く。帳場の方のだよ」
小母さんに促されて、千早は、濡れた両手をエプロンで拭きながら帳場に急いだ。
「もしもし」
「・・・もしもし。千早か」黒電話の受話器から久しぶりの声がする。
「うん」
「千早。来週あたり、家に帰って来てくれないか」
「ええっ」千早は驚いてしまった。
まるで島の生活がずっと続くような気がしていたので、来週帰るなんて想像できない。
「・・・済まなかった」しばらく沈黙が続いた後、父さんが口を開いた。「こういうことになってから、はじめてお前と母さんがどんなに大事か、分かった気がする」
「父さん・・・」
「千早。もし良かったら、もう一度やり直させてくれないか。これは、父さんと母さんからのお願いだ」
「勝手・・・だね」千早は冷たく答える。
「分かっている」
また沈黙が続く。
「勝手だよ」なぜか、くすくすと笑いがこみ上げてくる。「いきなり、人をこんな所に島流しにしておいてさ。それを、今度は、すぐ、帰って、来い、なんて」千早は、一語一語をしゃくり上げるようにして言った。目頭がじんと熱くなり、視界がぼやけてきた。
「…千早?」千早の語調に、父さんは戸惑っている。「…とにかく、帰ってきてくれ。ああ、今母さんと替わる」
「千早、千早?」今度は母さんの声だ。
「母さん」千早は目元をこすりながら言う。
「千早、元気にしてる?小母さんにあんまり迷惑かけてない?」
「大丈夫だよ」
「海辺に出るときは、必ず帽子を被るのよ。島の日差しは強いから」
「分かってる」
でも、すっかり小麦色に灼けた自分を見たら、母さんは驚くだろうな。
「もう、小母さんには話しておいたから。帰る日を小母さんと相談して、決まったらまだ電話をちょうだい」
「分かった」千早は答える。「…母さん、良かったね」
「うん。ありがとう」
母さんの、少女のように朗らかな声を聞くと、千早は静かに受話器を置いた。廊下の向こうの厨房では、小母さんがにこにこしながらこちらを見ている。
その時、綾が階段の上からひょっこりと顔を出した。
「お姉ちゃん。ドリル、さっきのとこまで終わったよ」
「綾ちゃん」言葉が、思わず口をついて出ていた。「今、父さんと母さんから電話があったの。仲直り、出来たんだって」
「本当」
「うん。私、家に帰れるんだ」
「えっ」綾子が身体を一瞬硬直させる。「そう…なの」
「うんっ」
「そっか。おめでとう、お姉ちゃん」
「うん。ありがと」
綾はまたばたばたと二階に戻っていく。
しかし背を向けた綾の顔に、言葉とは裏腹な翳があったことに、千早は気が付かなかった。
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