どれだけの時間が経っただろうか。
千早がぱっと瞳を開く。両肺の痛みは、そろそろ眠ったふりでは抑えられない程に大きくなっていた。口はしっかり閉じていても、喉元はまるで呼吸をしているみたいにびくびくと動く。再び時計を見ると、デジタル表示は3分22秒を指していた。
(もう・・・さすがに)
横の綾の様子を見る。綾は、相変わらず背筋を伸ばしたまま横桁にしがみついているが、苦しさをこらえるためか、頬をぷくっと膨らませていた。
(限界・・・かなっ)
千早はまたごぽぽっと息を吐く。大小いくつもの気泡は、真珠のように光りながら、長い時間をかけて海面へと上昇していった。
綾はまだじっとしている。しかし、見ているうちに両手は横桁をつかんだまま、綾はゆっくりと腰を浮かせ、頭を下にする形で徐々に身体を半回転させた。
(えっ?)
そしてそのまま、体操の選手のようにきれいに足先までぴんと伸ばすと、横桁の上に倒立して止まる。目は閉じられていたが、時たま頬が膨らんだり引っ込んだりしているので、意識はあるのが分かった。
(綾・・・ちゃん?)
ごぽごぽごぽっ。
綾に見惚れている間に、千早は残っていた肺の空気をほとんど吐いてしまった。喉元を手で押さえ、海水を肺に吸い込んでしまいそうになるのを懸命にこらえる。(あと十秒、あと十秒だけ)
綾はまだ、微動もしていない。六、七、八、九・・・。
(十)千早は脚を横桁から外すと、倒立を続ける綾を残したまま、渾身の力をこめて水を掻いて上昇していった。視界がどんどん明るくなっていく。紺。青。エメラルドブルー。
そして潜水開始から4分2秒後、大きな水しぶきをあげて、千早はほとんど忘れかけていた空気と陽光の世界の中に踊り出た。
「ぷはっ。はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
勝負の後、千早と綾はゴムボートの縁につかまりながら、しばらく身体を休めていた。水から出ている両肩はすぐ乾いてしまって、夏の日差しがちりちりと熱い。
「いい勝負、だったよね」
綾が、まだ少し息を切らしながら言う。「あたし、途中本当にやばかったよ」
「でも、やっぱりまだ敵わないな、綾ちゃんには」千早が答える。
千早が島に来て、3週間になろうとしていた。
白かった肢体はすっかり日に灼け、今では綾と同じくらい黒くなっている。泳ぎも上達して、もう海底の砂地まで素潜りで行けるし、水中眼鏡なしでも目が沁みて痛むことはなくなった。
「ところで、さっきなんで海の中で逆立ちしてたの?」
「ああ、あれね」綾が笑う。「別に。逆さまの方が、息が漏れにくいかなと思って」
「ええっ」千早はあきれた。「じゃあ、頬っぺを膨らませてたのは?」
「水中呼吸」
「水中・・・呼吸?」
「そう。苦しくなってきたとき、お口と胸に空気を出し入れして、呼吸してるつもりになるの。結構効くよ」
「・・・・・・」 千早は黙ってしまった。一体、この子はどこまでの可能性を秘めているのだろう。
「そろそろ戻ろうか」
ボートの中に身を滑り込ませながら綾が言った。沖風が出てきたのか、波がすこし高くなっている。ちらほらと、白い波頭も見えてきていた。
「うん」千早が応じる。「帰ったら、遅れてる数学の宿題、見てあげなきゃね」
「ええっ、やっぱりやるの。いいよ、後でまとめてやるから」
「駄目だよ。前に言ったでしょう。理数系の教科は、復習しながら、積み重ねるようにして勉強するのが大切なの。仮に後でまとめてできたとしても、自分の力には、ならないよ」
千早が、ボートの舫をブイから外す作業をしながら続ける説明を、綾は体育座りのような姿勢で聞いている。
「いいな、千早お姉ちゃんは。頭が良くて」
「ええっ」千早は、舫を手にしたまま綾の方に向き直った。「別に、私なんて。父さんや母さんだって、そんなこと・・・」
島に着いてから、まだ両親からは一度も連絡はない。離婚は、もう成立してしまったのだろうか。そして、夏休みが終わったら、自分の帰るべき家はあるのだろうか。
「千早お姉ちゃん」綾は、続けようとする千早を遮って言った。いつの間にか、両膝を床に付け、乗り出すような姿勢になっている。
「お願い。綾の、本当のお姉ちゃんになってよ」
「綾ちゃん・・・」少しの沈黙の後、千早は言った。「いいよ。私でよければ」
「本当。絶対だよ」
綾は、出会った時のはにかみを少し残しながら、それでも嬉しそうににっこりと笑う。
(このまま、夏が終わらなければいいのに)
千早は思った。
もうお昼近い。頭上には相変わらずみごとな入道雲があったが、しかし背景の青空には、微かながらも秋の気配が漂い始めていた。