麻耶は、しばらく立ち泳ぎのような姿勢のままで水中に漂いながら、池からのの入り口の方向を見つめていた。
 
ゴーグルをしていないので、視野はひどくぼやけている。入り口の辺りは、暗くてここからはもう何も見えなかった。
 
麻耶と千登勢が潜り始めてから、2分半以上が経過している。これから今来た道を泳いで帰るとすると、急いでも2分はかかるだろう。2分半+2分=4分半。絶望的な数字だ。
 (戻らなきゃ)(戻らなきゃ)
 
そう思いながらも、麻耶の体は再び泳ぎ始めることを躊躇していた。
 
ふと、横の千登勢を見る。千登勢は抱えているボストンバッグのジッパーをのろのろと開け、何かを取り出そうとしていた。

 千登勢がバッグから出したのは、水に入る前に「空気補給用に」と言って自分のバッグに入れていた、空気の入った500mlのペットボトルだった。その中身の浮力のせいで、腕からすぐ飛び出しそうになるのを、千登勢は懸命に抑えている。そしてボトルの飲み口を麻耶の方に向けると、こくん、と頷いて合図した。 千登勢は、自分よりもまず麻耶に空気を吸わせようとしている。
 
麻耶が手をひらひらと振り、
 
(いいよ)(私はまだ大丈夫だから)(千登勢が)
 と合図すると、千登勢は首を小さく横にふった。
 
(ううん)(麻耶ちゃんは私よりもたくさん動いているんだから)(麻耶ちゃんが先)
 
そう言いたげに、ボトルを差し出すのをやめない。
 
そして麻耶は、ボトルの口に唇を付けた。
 
(ありがとう)
 
もう、二人とも3分近く息を止めている。譲り合っている余裕は、あまり無かった。
 
手で堅く閉められたキャップを捻る。立ち上ってくる気泡を、麻耶は懸命に口で受け止めた。
 
だが、泡の大部分は麻耶の頬をつたって上っていってしまい、捕らえることのできたのはほんの一口分だった。麻耶はその一口の空気を、味わうようにして喉の奥に飲みこんだ。
 
美味しい。ほんのわずかな空気だったが、麻耶は体に力が再びみなぎっていくように感じた。
 
(さあ)(千登勢の番)
 
中身が半分ほどになった小さな空気タンクを、麻耶は千登勢に押し戻す。キャップを外した飲み口からは、麻耶が手で抑えていても、隙間から間断なく気泡が漏れ出していた。
 
千登勢は、ボトルの口に小さな唇を近づけた。
 
するとその時、持っていた千登勢がつい力をゆるめたのか、ボトルははじけるように千登勢の腕を飛び出した。麻耶が反応する間もなく、中身はいくつもの小さな泡となって、水面へと続く竪穴へと吸い込まれていく。
 
そして通路はまた静かになった。

    

 こぽぽぽぽっ、と千登勢が泡を吐き始めた。
 
こぽっ。こぽこぽこぽこぽっ。今度は止まらない。口を手のひらで抑え、懸命に我慢しようとするが、指と指の間からも空気は漏れていく。
 
(千登勢)
 
麻耶は、千登勢の両手首を握り、顔を覗き込んだ。
 
(しっかりして)(息を、息をこらえて)(全部吐いちゃだめ)
 
ようやく、千登勢の口から立ち上る気泡が止まった。だがそれは、千登勢の意志の力によるものではなく、肺から最後の空気を吐ききったためだった。
 
(千登勢)
 
麻耶は、千登勢の手を握る力を強くした。すると千登勢は、弱々しい微笑みを浮かべながら、親指でまたOKのサインを立てて見せた。そしてこぽっ、とボールくらいの大きさの泡を吐いた後、千登勢は限界を超えた。
 
がぼっ。がぼっ。腹筋がびくびくと痙攣し、細い体が弓なりにしなる。千登勢は、びっくりしたように開けた口から、何度も何度も水を飲み込んでいた。思わず喉元を手で押さえる。がぼっ。ごぼごぼっ。顔をゆがめ、むせ返るようにして必死に吐き出しても、水はすぐまた千登勢の口に入りこんでいく。千登勢は、魚のように水中の空気を取り込もうとでもするように、口をぱくぱくさせていた。
 
そして、千登勢の全身から力が抜けた。
 
麻耶が握っている手に力を込めても、もう握り返してこない。瞼は閉じられていた。それまで苦しさでゆがんでいた表情は消え、千登勢はまるで、水中で眠っているかのように安らかに見えた。
 
(千登勢)
 
麻耶は、反射的に千登勢の唇に自分の唇を押し当てた。天井のすぐ下にふわふわと漂っている千登勢の下に体を潜り込ませ、ほとんど逆立ちのような姿勢で、肺の温かい空気を千登勢の喉に吹き込んでいく。鼻に水が入ってきて、つんと痛んだ。
 
(千登勢、頑張って)(空気だよ)
 
麻耶は、もう自分の空気の半分くらいを千登勢に与えてしまっていた。
 
千登勢の首筋に回していた腕を解き、ゆっくりと唇を離す。すると、それまで穏やかだった千登勢の表情が、一瞬だけ苦しげに曇ったように見えた。

       

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