麻耶と千登勢は、水底のぽっかりとした開口部に進入すると、岩肌に沿って這うような姿勢で下へと泳いでいった。しばらく進むと、穴が水平になり、差し込む緑色の日光のせいで周囲が序々に明るくなっていく。
奥の通路の手前には、一箇所岩と岩がせり寄って狭くなっている所がある。麻耶は、ここをくぐり抜ける時に、うっかり頭を岩にぶつけてしまった。
こぽこぽっ、と思わず気泡が少し口から漏れる。
(いけないっ)(大事な空気を)
麻耶は思った。手をつないでいる千登勢が心配そうにしている。口をきゅっと堅く結び、セミロングの黒い髪を水草のようにゆらゆら揺らしていた。元来白い肌は、光線のせいかますます透けるように白く見える。
(平気。大丈夫)
麻耶はそう言うつもりで千登勢を見つめ返すと、自由な左手で奥の通路を指差した。
距離を稼ぐために、岩肌をプールの壁のように蹴って通路へと進入する。右手で千登勢を引っ張り、左脇にボストンバッグを抱えているので、麻耶はほとんど脚の力だけで潜って行かなければならなかった。早く、早く―焦る気持ちを抑えつけて、なるだけ規則正しくドルフィンキックを打っていく。
目の前に、あの緑の光の柱がぼんやりと見えている。
あれだ、と麻耶は思った。あと何回キックすれば、あそこまで行けるだろう。
ふと、こぽぽっ、と千登勢が息を吐いた。二人が潜り始めてから、およそ1分が経とうとしていた。
(千登勢)
気付いた麻耶が千登勢の手を思わず引き寄せると、千登勢は口を再びぎゅっとへの字に結んでいた。気泡の列は、もう止まっている。
千登勢は、麻耶に向かって握りこぶしを作り、小さく親指を立てて見せた。千登勢にはちょっと似合わない、勇ましいサインだ。どうやらさっき麻耶が教えた通りに、苦しくなる前に少し息を吐き出したらしい。
二人は再び泳ぎ始めた。うっかりしていると体が浮き上がり、背中を通路の天井にこすりつけてしまいそうになる。そのため、できるだけ頭を底に向けて、下へ、下へと潜り込んでいくように泳いでいく。時折二人の口から漏れる小さな泡が、きらきらと光りながら、天井の岩のくぼみに溜まっていった。
麻耶と千登勢は、ようやく緑の柱まで泳ぎ着いた。頭上の天井から光が差し込んできている。竪穴が、待ち焦がれる水面まで続いているのだ。
あと少しで、空気がある。
麻耶は、千登勢の方を振り返った。
(よく頑張ったね)
そう、心の中で問いかけると、千登勢はこぽこぽっと、また少し息を吐いた。
あらかじめ、竪穴に入るのは麻耶が先と二人で決めていた。竪穴は真っ直ぐに水面に続いているとは限らない。途中で何かトラブルが起きるかも知れず、その時麻耶が息のできない通路に残っていたのでは状況が分からないし、助けることもできない。だから、まず麻耶が周囲の様子を確認しながら水面まで浮かび上がり、十分に呼吸してから千登勢を助けに戻る。
千登勢は、あんまり待たせないでよ、と笑っていた。
麻耶は、すぐ来る、と目で千登勢に合図すると、スキューバダイバーがそうするように右手を高く頭上に挙げ、ゆっくりと竪穴に体をすべり込ませた。
竪穴は、人1人がやっと通れるほどの広さだった。上っていくにつれ周りはますます明るくなっていく。麻耶はふと、全速力で水面に飛び出したくなってきた。
麻耶が潜水を始めてから、およそ2分が経過している。潜水は得意なほうだったが、麻耶は自分の横隔膜がひくひくと痙攣し始めるのを感じていた。
空気。早く息がしたい。
その時、麻耶の両肩がごつんと硬い岩にぶつかった。
(どうして)
麻耶は上を見上げた。そして、予想もしなかったことが起きているのを知った。
竪穴は麻耶のいる辺りから急に、人が通れないほど狭くなっていて、そのずっと向こう、数メートル上に、水面がゆらゆらと鏡のように光っていたのである。