Title9-3.GIF (2758 バイト) 『ルネサンスの女たち』             

[ 参考書籍 ]

〜 読書記録 〜

『ルネサンスの女たち』

塩野七生著

新潮社 2001年6月30日発刊

目 次

bullet

第一章 イザベッラ・デステ(1474〜1538)

bullet

第二章 ルクレツィア・ボルジア(1480〜1519)

bullet

第三章 カテリーナ・スフォルツァ(1463〜1509)

bullet

第四章 カテリーナ・コルネール(1454〜1510)

bullet

メイキング『ルネサンスの女たち』

概 略

bullet

第一章 イザベッラ・デステ(1474〜1538)

イタリア半島の付け根の東側、ヴェネツィアの南側に隣接して位置するフェラーラに生まれ、西隣のマントヴァ侯国に嫁いだ。 どちらもルネサンス期のイタリアにあって、大国にはさまれながら、さまざまな政略をめぐらせながら小国を維持した。嫁いだ相手はフランチェスコ・ゴンザーガ。

また、イザベッラの妹ベアトリーチェはミラノ公国のイル・モーロに嫁ぐ。ミラノ公国の摂政であったが、甥の公爵から国を乗っ取ることになる。イル・モーロはナポリ王国の王位継承権を主張し、その即位にも貢献した法王アレッサンドロ六世との決裂し、フランスのシャルル8世をイタリアに引き入れて、外国侵入によるその後のイタリアの混乱の原因を作ることになる。そして、アレッサンドロ6世を中心として対フランス同盟が結成される。その総司令官がフランチェスコ・ゴンザーガであり、タローの戦いでフランスに対して決定的な勝利をおさめる。フランチェスコはその後、傭兵としてヴェネツィアの陸軍総司令官なども勤める。夫が戦線へ出ているときに、マントヴァの国政と宮廷を取り仕切って守ったのがイザベッラである。

しかし、フランチェスコは1508年法王ジュリオ2世が主唱した対ヴェネツィアのカンブレー同盟に参加し戦うが、ヴェネツィアの捕虜となる。イザベッラは夫の留守の間、周辺の各国がマントヴァを狙い、援軍の国に入れることや息子を人質に出すように要求してくるのを、拒否しつづけた。特にヴェネツィアからの要求を拒否することは夫を危機にさらすこととなる。しかし、この姿勢を貫き通したことが結局マントヴァを守ることとなった。フランチェスコも釈放され、イザベッラの名前はヨーロッパに広まったという。イザベッラは国政に関与するが、夫からは疎まれるようになる。フランチェスコは、チェーザレ・ボルジアの妹ルクレツィアとの恋に落ちる。夫の死後、1527年にはサッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)が起きるが、イザベッラはイタリアの同盟には参加せず、南下する神聖ローマ帝国軍に通過を許し、掠奪から国を守った。イザベッラの周りの登場人物を見ても、イタリア政治の中心にいたことがわかる。そして、政略の中に生きたことも。

 

bullet

第二章 ルクレツィア・ボルジア(1480〜1519)

父は法王アレッサンドロ六世、兄はチェーザレ・ボルジアである。ルクレツィアは、これらの家族によって、この時代の女として、政治に翻弄された。政略としての結婚、離婚、そしてミラノを味方とするための再婚。そしてその夫が、この家族にとって政敵となるや、兄によって殺される。その兄によって、同盟のために、フェラーラ候アルフォンソ・デステに三たび嫁ぐことになる。そのような戦乱、政略の中にあって、ルクレツィアはそれらを受入れた。また、詩人ピエトロ・ベンボやマントヴァ候フランチェスコ=ゴンザーガと恋に落ちる。イザベッラ・デステ、カテリーナ・スフォルツァと違って、女として描かれている。そして、父が死に、兄ボルジアが新法王ジュリオ2世の策略により捕まり、幽閉される。彼女は嘆願するなどしたが、すでに事は決していた。ボルジア家の没落後はむしろ平穏に暮らしたが、それも長くは続かなかった。39歳、十度目の妊娠の後没した。

 

bullet

第三章 カテリーナ・スフォルツァ(1463〜1509)

「イタリアの女傑」という副題がつけられているようにカテリーナ・スフォルツァは、その武勇伝で彩られている。しかし、彼女の最初の結婚も政略の中で決まった。ミラノ候ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘であったカテリーナは、ミラノとローマ(法王シスト4世)とのつながりを強めるために結婚することとなった。これは当時ロレンツォ・イル・マニーフィコの下で強盛となりつつあったメディチ家に対抗するためであった。しかし、結婚直前父ジャンガレアッツォはメディチ家にそそのかされた反対勢力によって暗殺される。(1476年)

カテリーナが嫁いだのは、ジローラモ=リアーリオ。法王シスト4世の甥であり、大法王と呼ばれるほどのローマの実力者であった。カテリーナはミラノの所領イーモラが持参金だった。カテリーナはシスト4世にもかわいがられ、ローマに住んだ。1483年 シスト4世が死去したとき、カステルサンタンジェロの城代だった夫に対して退去命令がでたが、彼女はその城を占拠するなどして話題を集めたという。

そして1488年こんどは夫リアーリオ伯がローマと組んだメディチ家による陰謀によって、暗殺される。そして陰謀者側に捕らえられるが、降伏しない砦に説得へ行くと言い、そのまま出てこなかった。子どもが人質にされているにもかかわらず。城塞をでなければ、この子どもたちを殺すと言った陰謀者たちに対し、彼女はやおらスカートのすそをまくり、こう言ったという「なんたるばか者よ。私はあと何人だってこれで子どもを作れるのを知らないのか!」この後ミラノからの援軍によって、勝利する。しかし、彼女はミラノからの援軍がイーモラの町に入るのを拒否した。これはイーモラの町と独立を守るためである。その後、チェーザレ・ボルジアに降伏する1500年までカテリーナがイーモラとフォルリを支配することとなる。そして、チェーザレとのフォルリをめぐっての攻防でも勇敢に戦ったが破れる。

この間、フィレンツェ大使ジョヴァンニ・デ・メディチと結婚し、一子を設ける。これが後に「黒隊のジョヴァンニ」と呼ばれドイツ軍のローマ進軍の時に孤軍奮闘する。また、その子コシモが後のフィレンツェのトスカーナ大公となるなど、その血はヨーロッパ各国の王室に流れていく。スペインやイギリスでは現王室にまでつながる。

 

bullet

第四章 カテリーナ・コルネール(1454〜1510)

ヴェネツィアの騎士の娘で、キプロス王に嫁いだ。やはり政略結婚である。オスマントルコやエジプトのマムルーク朝などから独立を守りたいキプロスと東地中海の制海権の拠点が欲しいヴェネツィアの思惑が一致したのである。しかし、夫であるキプロス王が病死した後、王妃としてヴェネツィアの力を借りて治めていくが、各国の思惑が入り乱れるこの島には反対派も多い。イスラム圏の国だけではなく、ナポリ王国によって後押しされた旧王室のグループもあった。そしてクーデターが発生するが、それもヴェネツィアの敏速な、そして強大な海軍力を駆使した行動によって抑えられる。しかし、彼女は王妃としてよりも、軟禁状態となり、やがてヴェネツィアにより退位させられ、キプロスはヴェネツィアの支配下に入る。

 

bullet

メイキング『ルネサンスの女たち』

これが塩野氏の処女作ということでもあり、彼女が“イタリアに遊びつつ学んだ”ということがどういうことなのか、冒険ともいえるその周遊から始まって、これを書くまでのことがよくわかる。

 

感 想

「男を描くとき、必ずしも女を書く必要はないが、女を書くとき周囲の男を書かざるをえない 。それゆえに女を書くということは、歴史の真実に迫ることになる」という。ルネサンスという時代が生き生きとした時代であるという評価はあるものの、まだ中世から抜け出したばかりの時期でもある。それだけに当時の習慣や政治に巻き込まれつつ、それでも登場する女性たちが、男顔負けの政略家となり、戦闘に参加するなど実に生き生きしていたことが史実に裏打ちされながら、よく描写されている。

『メイキング〜』の中で、塩野氏は自分が「文学」と「歴史」双方から継子扱いされている、といっているが、それだけに自分の領域を確立しているという自負が伺える。

 

2003.11 読了

参考資料  ホーム