Title9-3.GIF (2758 バイト) 『ルネッサンスとは何であったか』             

[ 参考書籍 ]

〜 読書記録 〜

『ルネッサンスとは何であったか』

塩野七生著

新潮社 2001年4月15日発刊

目 次

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第一部 フィレンツェで考える

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第二部 ローマで考える

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第三部 キアンティ地方のグレーヴェにて

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第四部 ヴェネツィアで考える

 

参考資料 一 ルネッサンス人一覧

     二 イタリア半島住民数の推移

     三 帝政ローマ時代から中世、ルネッサンス期までの貨幣の変遷

     四 イタリアの勢力分布(十四世紀、十五世紀、十六世紀)

     五 主役たちの略歴一覧

 

概 略

13世紀初頭の聖フランチェスコやフリードリッヒ2世など、ルネッサンスの起源を求めるところからはじめているが、やはりそれは既成概念つまり中世のキリスト教へのアンチテーゼからはじまっているとしている。そして、ルネッサンス最盛期が自立心旺盛なフィレンツェから、キリスト教会がその芸術を受け入れたローマ、そして新大陸発見、宗教改革がはじまった後はヴェネツィアへとその中心が移動する経緯を追っている。ルネッサンスをその芸術的な面だけではなく、時代が大きく変わろうとしているさまざまな事象の中で理解することができる。

 

感 想

そして、ルネッサンスの終わりを象徴している一つの文章がある(P100)。「マキャベッリは政教分離を提唱した。そしてメディチ家のロレンツォは政教分離を実行し、フィレンツェのルネッサンスを体現した。しかし、マキャベッリはその著『君主論』では、ロレンツォではなく、チェーザレ・ボルジアを取り上げた。それはなぜか。

当時のヨーロッパの先進国であるイタリアのヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ナポリの間でならば、コシモやロレンツォ(いずれもメディチ家最盛期の当主)の勢力均衡策は有効であった。つまりすでに持っている国の間でならば有効であった。しかし、開発途上国、持たざる国には通用しない。なぜなら勢力均衡策とは現状維持策だから。ところが現状維持に不満足などこかの国が、現状維持主義の全人口に匹敵するほどの大軍を率いて攻め込んできたらどうなるか。十五世紀末にフランス王の軍に攻め込まれたイタリアの諸国は、この問題を突きつけられたのです。これに答えをだそうとしたのが、マキャベッリの『君主論』。時代は変わったのです。リーダー像も変わらざるをえなかった。・・・(中略)・・・マキャベッリにとっては、政治の巧者ではあっては軍事を重視しなかったロレンツォはイタリアの現在を論ずる『君主論』には、とりあげる価値のない過去の人であったのでしょう。」

 

2003.08 読了

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