そして、ルネッサンスの終わりを象徴している一つの文章がある(P100)。「マキャベッリは政教分離を提唱した。そしてメディチ家のロレンツォは政教分離を実行し、フィレンツェのルネッサンスを体現した。しかし、マキャベッリはその著『君主論』では、ロレンツォではなく、チェーザレ・ボルジアを取り上げた。それはなぜか。
当時のヨーロッパの先進国であるイタリアのヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ナポリの間でならば、コシモやロレンツォ(いずれもメディチ家最盛期の当主)の勢力均衡策は有効であった。つまりすでに持っている国の間でならば有効であった。しかし、開発途上国、持たざる国には通用しない。なぜなら勢力均衡策とは現状維持策だから。ところが現状維持に不満足などこかの国が、現状維持主義の全人口に匹敵するほどの大軍を率いて攻め込んできたらどうなるか。十五世紀末にフランス王の軍に攻め込まれたイタリアの諸国は、この問題を突きつけられたのです。これに答えをだそうとしたのが、マキャベッリの『君主論』。時代は変わったのです。リーダー像も変わらざるをえなかった。・・・(中略)・・・マキャベッリにとっては、政治の巧者ではあっては軍事を重視しなかったロレンツォはイタリアの現在を論ずる『君主論』には、とりあげる価値のない過去の人であったのでしょう。」
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