ディオクレティアヌス帝は蛮族の侵入に悩まされるローマ帝国を、分割して統治する「四頭政」のシステムを導入した。そして、引退するが、このシステムは、強力な一人の最高権力者がいて、成立、維持できるものであった。引退後、皇帝たちの間に権力闘争がはじまり、四頭政は崩壊する。
これを崩壊させ、再び一人の手に権力を握ったのが、コンスタンティヌス帝であった。彼は、キリスト教を公認し、ローマ帝国を統治する手段として、キリスト教を活用するために振興した。特にこのキリスト教振興策は、最後に残ったリキニウス帝が支配するローマ帝国東方地域に特に多かったキリスト教徒へのメッセージとして使われた。
また、ローマ市民と元老院から統治を委託され、不評を買うと暗殺など抹殺される不安定な皇帝の位をより安定させるために、唯一絶対の『神』から統治を委託される、という誰からも文句のつけようのない方式に変えることとなった。これが、王権神授説というフランス革命までのモデルとなったともいえる。この皇帝の位の意味を変えたことも、そしてキリスト教を公認したことも併せて、ローマ帝国は事実上終わりを告げ、中世の扉を開いたといえる。
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