13世紀東アジアを征服したモンゴルは西征を開始した。
ホラズム帝国を倒し、南はインド、北はロシアなどに侵入しながら、西アジアを征し、ヨーロッパに迫ってきた。イスラム世界では当時エジプトに中心をおくアイユーブ朝があったが、バグダッドにいるカリフの力も低下し、求心力もおちていた。次々とモンゴルに征服されていく事態にイスラム世界は対抗できなかった。ヨーロッパでは当初モンゴル軍はイスラム世界をたたいてくれる同士としての期待をも持ったが、それはヨーロッパをも支配下に置こうとする意思を知り、パニック状態となった。
西欧でも教皇やフランス国王が外交などによりけん制したが、ロシア、東欧などが徐々にモンゴルの支配下におかれていった。
しかし、急速に拡大したモンゴルも一枚岩ではなく、ロシア方面のキプチャク=ハン国とペルシア方面のイル=ハン国で内紛があり、西進の勢いはようやく衰えを見せた。
イスラム世界では、アイユーブ朝を倒したマムルーク朝が隆盛となり、モンゴルを防ぐと同時に、ヨーロッパ、特に十字軍以来、聖地パレスチナに居座っている勢力に対して攻勢を強めた。
このような状況の中、宮廷にキリスト教徒が多いイル=ハン国は西欧へ近づき、キプチャク=ハン国はマムルークに接近した。つまり、たすきがけの状態となり、それが交わるコンスタンティノープルは政治、軍事的に争奪の地となる。十字軍によりラテン帝国が置かれ、キリスト教世界のイスラムに対する障壁となっていたが、ビザンツ帝国がこれを奪い、イスラムとキリストのバランスの上に均衡を図っていた。
キリスト教対イスラム教という単純な対立軸だけではない。例えば、キリスト教世界の中心的な存在であったフランス国王シャルルは、シチリア王を兼ねていたが、シチリア王としてはマムルークと不可侵の条約を結んでいた。結局、聖地パレスティナが争いの地となり、第一次十字軍以来、聖地にいたキリスト教勢力はマムルーク朝のバイバルスによって、一掃されることになる。
(*年を入れる)
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