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第一章 ブロードウエイの行進
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第二章 徳川国家からの遺産
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小栗上野介は幕府にあり、金がない中で日本で最初の造船所を造った。これが明治を繁栄を支える礎となる。明治という国家は、江戸を否定してできたのではなく、江戸270年の無形の精神遺産の上に成立した。
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第三章 江戸日本の無形遺産“多様性”
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薩摩は物事の本質をおさえておおづかみに事をおこなう政治家や総司令官タイプを多く出し、長州は、権力の操作が上手なため、官僚機構をつくり、土佐は野にくだって自由民権運動をひろげ、佐賀は着実にやっていく人材を明治国家に提供した。
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第四章 “青写真”なしの新国家
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西郷隆盛はじめ倒幕を進めた人びとには明治国家をつくる明確なプランがなかった。プランなしに革命をした後で欧米に国家見学をして、どのような国づくりをすべきか学んでいた。
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第五章 廃藩置県−第二の革命
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西郷隆盛は山県有朋から廃藩置県の話をもちかけられ、主君島津久光に相談なしに承諾した。久光は西郷を逆臣とののしり、怒りのために一晩中花火を打ち上げさせたという。そして廃藩置県という第二の革命は無血で成った。
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第六章 “文明”の誕生
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日本に寄港した奴隷船マリア・ルス号を断固として告発したのが副島外務卿であった。彼は早くも文明の名において裁いたが、それは日本国内の娼妓売買なども見直すことになったという。
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第七章 『自助論』の世界
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明治時代はキリスト教、特にプロテスタント精神と武士道精神が融合した時代であった。そんな中、サミュエル・スマイルズの『自助論』を中村敬宇が翻訳し、『西国立志編』がベストセラーになった。
つまり、明治はプロテスタント精神を受け入れる素地が、江戸時代の武士道によって醸成されていた。
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第八章 東郷の学んだカレッジ−テムズ河畔にて
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東郷平八郎は1871年、26歳のときに英国の商船学校へ留学(〜1878年)したこと。そして、東郷と日露戦争の日本海海戦の戦術を作った秋山真之について言及している。詳細は『坂の上の雲』。
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第九章 勝海舟とカッティンディーケ−“国民”の成立とオランダ
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幕府が洋式海軍育成のために招いたオランダのカッティンディーケに学んだ。司馬氏は勝海舟について、“日本にまだ国民がいない頃、はじめて自分を国民にした”人物としている。幕臣でありながら、日本、特に世界の中でのわが国のことを考えた、ということであろう。家柄がそれ程でもない勝は、出自により階級がきまるような幕府には、期待できないと考えていたようである。そして、それは坂本竜馬に強い影響を与えることとなる。竜馬自身も勝海舟と出会う前からオランダの市民社会制度には関心を持っていた。つまり、勝海舟、坂本竜馬がそれぞれオランダから影響を受け、互いに影響しあって幕末の原動力になったといえるだろう。詳細は『竜馬がゆく』。
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第十章 サムライの終焉あるいは武士の反乱
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サムライの時代が終焉し、明治政府を形成した人々もいれば、西郷を押し立てて、西南戦争で散った薩摩武士集団がおり、また、キリスト教精神の中に身を置いた内村鑑三や新渡戸稲造らがいる。福沢諭吉が西郷を擁護する論文を書いていた(すぐには公表しなかった)が、それはなによりもサムライが死んでしまったこと、つまり日本人の品性や気骨、質実さが失われることをいいたかったのではないか。
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第十一章 「自由と憲法」をめぐる話−ネーションからステートへ
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おわりに “モンゴロイド家の人々”など
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