マキャベッリはまさにルネッサンスの終焉に立ち会っていた。
それはスペイン王を兼ねる神聖ローマ皇帝カルロスが、カトリックに敵意を持つドイツ傭兵を率いてイタリアに侵入してくる。イタリア側の総司令官グイッチャルディーニに、確たる地位もないマキャベッリが、イタリアをあるいはフィレンツェを守ろう
と従った。結果としてイタリア側の連携がとれず、イタリアが破れ、ローマが掠奪されたことにより、ルネッサンスの終焉とな
った。マキャベッリはそれを目撃したのである。これよりも前に「君主論」は書かれているが、マキャベッリが歴史上、これほど劇的なタイミングに生きていたということを
改めて知った。
「君主論」はこのような時代の洞察であったということであろう。ときはまさに自由な雰囲気のルネッサンス時代から、絶対君主が政治に、経済繁栄のために、そして領土拡大、自国の強大化に、自分の考えを思う存分ふるえるような時代の到来を告げていた。
「君主論」はその絶対君主制に正当性を与えたがごとく言われることがあるが、実は歴史家、そして政治思想家としての時代に対する深い洞察であった
、あるいはそれにすぎなかった、と思われる。
塩野七生のルネッサンス著作集は
、その時代を立体的に理解させてくれる。ともするとその芸術面にばかり注目されるルネッサンスであるが、複雑なイタリア情勢について政治面での面白さもクローズアップしてくれている。「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」では、稀代の風雲児であるチェーザレ・ボルジアをローマ教皇領を預かるロマーニャ大公という立場から、そして、「わが友マキャベッリ」では、同時代からその後のフィレンツェ共和国の立場から、「海の都の物語」では、ヴェネツィア共和国の
合理性の強さを、それぞれ描いている。さらには、「神の代理人」ではローマ教皇たちを、「ルネッサンスの女たち」ではやはりこの時代の女性たちを、という具合である。
「君主論」のモデルとなっているチェーザレとの出会い、関係はマキャベッリに大きな影響を与えているはずだが、むしろ『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』に詳述されており、ゆえにこの『わが友 マキャベッリ』では省略されているところが、この本単体としては残念ではある。
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