Title9-3.GIF (2758 バイト) 2003年中近東             

 

イラク戦争

概略

2003年3月20日 米ブッシュ大統領は、英軍と共同でイラクへ進攻。圧倒的な軍事力により、
21日後の4月9日首都バグダッドを攻略した。
米イラク進攻にあたっては国連との協調を図ったが、、国連常任理事国であるフランス、ロシア、
中国などが反対し、米英のみの進攻となった。
米のイラク進攻は大量破壊兵器(核、毒ガス、生物兵器など)に対する国連査察に応じない
ことが直接的な原因であるが、2001年9月11日米国に対する同時多発テロの後に、ブッシュ
大統領がイラン、北朝鮮などともにテロリストを支援しているイラクを「悪の枢軸」と呼んだとき
から方向づけられていたと言ってもよいだろう。
この攻撃と占領により、1979年以降続いたフセイン政権は崩壊した。
 

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サダム・フセイン政権

1959年 フセインは、スエズ戦争(第二次中東戦争)でエジプトのナセル大統領を支持し、若くしてバース党(アラブ復興社会党)に入党した。
1959年 バース党のテロ組織の一員として、前年のクーデターでファイサル王政を打倒して政権についたカセム首相の暗殺を謀るが失敗、エジプトに亡命した。
1968年 バクル将軍が実権を握ったバース党穏健派のクーデターで重要な役割を果たした。
1963年 革命評議会の副議長となり、国内の治安組織網を整備するとともに、反対勢力の粛正を進めた。
1979年 バクル大統領が引退し、革命評議会副議長だったフセインが大統領に就任。フセインは革命評議会議長や国軍最高司令官なども兼ね、権力を掌握した。
1980年 権威主義的支配体制の確立を目指すフセインにとってイスラム革命の輸出を標榜するホメイニを最高指導者とするイランは脅威であった。特に、イラクの南部にはシーア派が多数住んでおり、イランの主張に同調する動きもあった。そこで、内政上の不安要因を消し去り、あわせてペルシャ湾岸地域における覇権の確立を狙って1980年イランに侵攻してイラン・イラク戦争を起こした。
1988年 このイラン・イラク戦争は88年国連の調停により停戦した。これに先立ってイラクはイランの南部の要衝アフワズに毒ガスミサイルを打ち込んだ。同年、国内でも、北部の反政府運動のクルド人を化学兵器で攻撃し、約5000人を殺害したといわれている。*1
1990年 イラクはクウェートに進攻。これに対し、米英を中心とする多国籍軍がイラクに対して反撃し、湾岸戦争となった。 イラクはクウェートから撤退した。
1998年 12月米英は対イラク攻撃を開始。国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)の査察チームが引き揚げ、査察は停止となる。
1999年 国連安保理は新たな査察機関である国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)を設置した。
2000年 国連安保理はブリクス前IAEA事務局長を委員長に任命し、新たな査察への意欲を示した。
2001年 9月11日米国ニューヨーク世界貿易センタービルなどに対する同時テロ発生。米国ブッシュ大統領は、サウジアラビア人ビン・ラディンと彼が率いるアルカイダを犯行グループと断定。また、イラク、イラン、北朝鮮をテロリストを支援する「悪の枢軸」と非難。しかし、この段階では、アルカイダおよびそれを擁護しているアフガニスタンのタリバン政権が 米国の当面の攻撃目標となった。
2003年 米英軍がイラクへ進攻(イラク戦争)し、フセイン政権 は打倒された。フセインに関しては死亡説が流れているが、その遺体は大量破壊兵器と同様発見されていない(2003.05.8現在)。国民の 過半数を占めるシーア派が復権し始めているが、そのシーア派を中心に反米デモなど展開されている。*2

*1

かつて米国はイラクの研究施設に炭疽菌やボツリヌス菌などをアメリカの商務省の輸出承認を得て送付していたといわれている。

*2

1990年の湾岸戦争のとき、シーア派はフセイン政権に対して反体制の暴動を起こした。シーア派の指導者はアメリカに支援を求めたが拒否され、フセイン政権による鎮圧で10万人以上が死亡したことがある。イラクのシーア派住民には反米感情が根強く残っているといわれている。

 

イラクの歴史

その地は、世界四大文明のひとつメソポタミア文明発祥の地である。メソポタミアとは、古代ギリシア語で、ふたつの大河に挟まれた土地を意味する。チグリス川とユーフラテス川である。どちらの川もトルコのアナトリア高原を源としている。東側がチグリス川、西側がユーフラテス川である。二本の川は南イラクのクルナという村で合流し、ペルシア湾へ注ぐ。イラクにはメソポタミア文明の流れをくむ多くの遺跡、ウル、バビロン、アッシュール、ニネヴェ、ニムルドなどがある。

 

  北メソポタミア 南メソポタミア
BC10000年〜  8500年頃 農耕(麦作)牧畜の開始  
BC6500年頃

初期集落の形成

 
BC6000年頃 農耕の民が徐々に下流域へ拡大、ウバイド文化の形成
BC5000年頃 灌漑農耕の発展、神殿の出現  
BC4000年頃

都市の発展、数字記録、絵文字の発明、円筒印章の使用

BC2800年頃 都市国家の形成 シュメール初期王朝
BC2500年頃 シュメール ウル王朝
BC2350年頃

都市国家キシュの高官サルゴンは南メソポタミアへ遠征し、諸都市国家を統一アッカド王朝を形成した。

BC2000年頃 古アッシリア時代 古代バビロニア時代
BC2000年頃 アムル人の南下⇒ラルサ王国、バビロニア王朝を開く
BC18世紀 アッシリアのシャムシ・アダド1世(BC1813〜BC1781)による最盛期。息子をマリ(ユーフラテス沿岸の都市国家)の王とする。 バビロニアのハンムラビ(BC1792〜1750)、マリを破壊。

BC1763年 ハンムラビ、メソポタミア諸都市を制圧し、統一。1760年頃 ハンムラビ法典を制定。

BC17世紀 ミタンニ人によるミタンニ王国建国  
BC16世紀   BC1595年、ヒッタイト王国のムルシリ1世、バビロンを破壊
  東方山岳地帯のカッシート人がバビロンを支配;カッシート王朝(バビロン第三王朝)
BC13世紀 1270年頃アッシリア、ミタンニ王国を滅ぼす  
BC12世紀 BC1150年、エラムの王シュトゥルク・ナフンテ1世がメソポタミアに侵入し、各都市を破壊、略奪し、ハンムラビ法典などをスーサに持ち去る
BC9世紀 アッシリア強大化
BC671年 アッシリアのエサルハッドンがエジプトを征服し、オリエント統一
BC7C中頃 アッシュール・バニパル王、ニネヴェに20万にのぼる楔形文字の粘土板を収める大図書館を建設。
BC625年 カルデア(新バビロニア)、アッシリアから独立
BC612年 ニネヴェが陥落し、アッシリア滅亡。カルデア(新バビロニア)、メディア、リディア、エジプトの4王国分立時代
BC604年 カルデアでネブカドネザル2世即位(〜BC562年)。カルデアおよび首都バビロン繁栄。バベルの塔、空中庭園などが作られる。
BC582年 ネブカドネザル2世、ユダ王国を滅ぼす。バビロン捕囚(ユダ王国のヘブライ人をバビロンへ連行し、都市建設などに従事させた)
BC559年 アケメネス朝ペルシアのキュロス2世、メディアから独立。BC550年ペルシアがメディアを滅ぼす。BC546年ペルシア、小アジアのリディアを滅ぼす。
BC538年 アケメネス朝ペルシア メソポタミアのカルデアを滅ぼす。 アケメネス朝、ヘブライ人を解放し、バビロン捕囚終わる。
BC525年 アケメネス朝、エジプトを征服し、オリエント統一。
BC522年 ダレイオス1世即位(〜BC486)。ゾロアスター教を国教とする。ペルセポリスに大宮殿建設。
BC500年 ペルシア戦争勃発。(〜BC449)。
BC334年 アレクサンドロス大王の東方遠征はじまる。
BC333年 ダレイオス3世、イッソスの戦いでアレクサンドロスに敗れる。
BC330年 ダレイオス3世暗殺され、アケメネス朝ペルシア滅亡

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