明の第三代皇帝永楽帝は、積極的に朝貢貿易を押し進めようとして、宦官の鄭和の指揮もと、宝船艦隊を組織させて、朝貢のための各国代表を迎えて、送り届けるだけでなく、艦隊をさらに“その先”へ
派遣した。
永楽帝のときに紫禁城の火災やその建設のための木材伐採に起因する災害などから政情不安定となり、次の洪武帝のときに、大規模な艦隊派遣の記録はすべて抹消されたために、ほとんど記録に残っていないが、多くの新発見をした大航海が行われていたという。
著者の推論の積み重ねが多いが、次のような事実を挙げて、この艦隊の探検行が、ヨーロッパ人の新大陸、新航路発見に先立って行われていたという説を説明している。
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コロンブス、マゼラン、バスコダ・ガマ、あるいはポルトガルのエンリケ航海王子が新大陸、新航路発見前にすでに、何者かが描いた新大陸の地図を持っていた可能性。
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ヨーロッパ人が新大陸を訪れたときにすでに、中国産の鶏(にわとり)が南米で発見されている。
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南米産のとうもろこしが、マゼランがフィリピンを訪れたときにそこで発見されている。
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北米やオーストラリアで古い中国製と思われる難破船が発見されている。
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南米で中国と同じ漆塗り技術が発見されている。
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南北アメリカやオーストラリアで、黄色人または長衣を着た人間の渡来伝承がある。
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ヨーロッパの発見者の前に、新航路や新大陸の地図が描かれていた仮説とは、イスラム教への改宗者でイタリア人のニコロ・コンティがインドのカリカットへ行っていること。その同じ頃、明の鄭和がその地を訪れていること。つまりニコロ・コンティは鄭和艦隊に同乗したということだ。そして、イタリアにもどったニコロ・コンティは、ポルトガルのエンリケ航海王子の兄であり、地図を収集・作成していたドン・ペドロ指揮下の地図製作者に会ったということ。また、コロンブスに西回りで日本、中国へ行けること教えた地理学者トスカネリもニコロ・コンティから話を聞いている可能性があり、その話をトスカネリはマルチン・べハイムに伝えている。マルチン・べハイムは地球一周航海を行ったマゼランに示唆を与えている。新航路、新大陸の発見者たちは、ほとんど鄭和とその配下の洪保、周満、周鼎、楊慶などが作成した地図を手に持っていた、ということである。
そして彼らは明の永楽帝の「遠方の人々を情深く遇する」と命じられており、ヨーロッパのように、植民地化や簒奪、殺戮などが行われることなく、あくまでも朝貢貿易促進のために平和のうちに遠征が行われたというものである。
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