『平和新聞ながさき版』
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2022年12月25日 アルマアタ宣言(1991年12月21日) |
1991年12月21日、カザフスタン最大の都市アルマアタで、ソビエト連邦の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を承認する「アルマアタ宣言」が、ソ連構成国のうちバルト3国とグルジアを除く11共和国首脳により決議された。 85年に登場したゴルバチョフは「ペレストロイカ」「グラスノスチ」など政治・経済の改革、言論の自由の保障を進めた。国内経済が混乱し、政府不信や民族の独立志向が高まる中、バルト3国の独立宣言などソ連は崩壊の危機に陥った。 91年12月1日にウクライナで独立宣言の是非を問う国民投票行われ、賛成は90%に達した。12月8日、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの首脳がEUをモデルにした「CISの設立協定」に調印する。これがアルマアタ宣言へと発展した。 核兵器の保有権に固執したウクライナだが、その放棄と引き換えに54年にソ連から移管換えとなっていたクリミア半島の領有権を確保した。だが2014年にクリミア自主共和国のロシアへの併合を機にウクライナはCISを脱退する。 |
2022年12月15日 非核三原則の表明(1967年12月11日) |
1967年12月11日、衆議院予算委員会で佐藤栄作首相が「非核三原則」を表明した。返還の決まった小笠原諸島への核兵器再持ち込みの懸念に対して「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を主張するとした。 非核三原則はその後の71年11月の衆議院本会議決議で「国是」として確立するが、「持たず」「作らず」は55年の原子力基本法の議論で合意がみられ、「持ち込み」は60年の安保条約改定時の事前協議で拒否するとしていた。 しかしその後、米国側から「核兵器搭載艦船は日本寄港の際にわざわざ兵器を降ろしたりしない」(74年)、「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」(81年)の発言などが相次ぐ。 実は米軍装備の重要な変更に関する「事前協議」には密約があり、対象とするのは「核ミサイルの陸上基地への配備」のみであった。艦船や航空機による「持ち込み」はフリーパスであることを当然ながら佐藤首相は知っていたのである。 |
2022年11月25日 オレンジ革命(2004年11月22日) |
2004年11月22日、ウクライナで「オレンジ革命」が始まった。これはこの年の大統領選挙の不正をめぐる抗議行動に端を発した政治的・社会的運動で、その後の今日に続く、ウクライナの立ち位置に二者択一を迫る事件となった。 1991年に旧ソ連から独立したウクライナはその後もエネルギーをロシアに多く依存し続けた。一方、EUやNATOの東方拡大の中、04年5月には旧東欧8カ国のEU加盟で、ウクライナは文字通りEU諸国とロシアの狭間となった。 この年の大統領選は、ロシアを重要視する南東部のヤヌコーヴィチ派(青色)と、EU帰属を訴える北西部のユシチェンコ派(オレンジ)の大激戦となった。ヤヌコーヴィチの当選が発表されると不正追及・再選挙の大運動が起きた。 再投票で当選したユシチェンコの勝利宣言で「革命」は終結。その後の政権内での抗争で民衆が離反し、10年の選挙ではヤヌコーヴィチが大統領となるも14年には失脚してロシアに亡命。ロシアのクリミア侵攻・併合へとつながる。 |
2022年11月05日 ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日) |
1989年11月9日、ベルリンの壁が「崩壊」した。この日、東欧諸国の改革の流れの中で東ドイツが市民の移動緩和策を発表し、ベルリンの壁の国境検問所に市民が殺到。国境ゲートが開放されてベルリンの壁はその機能を失った。。 第二次世界大戦後、東ドイツ内のベルリンは特別な地域として東西両陣営により分割統治され、西ベルリンは西ドイツの飛び地に。東西ドイツの経済格差が広がる中、東ベルリンから西ベルリンへ亡命する人は増大の一途だった。 危機感を抱いた東ドイツは1961年8月13日、東西ベルリンの境界線を封鎖し、一夜にして西ベルリンを有刺鉄線で取り囲んだ。その後75年には高さ3 mあまり長さ155 kmのコンクリート壁が完成。壁を越えようとして死傷者も。 翌11月10日には重機などが持ち込まれベルリンの壁の破壊が始まった。ベルリンの壁崩壊により東西ドイツの国境は事実上なくなり、翌1990年10月3日、東西ドイツは統一した。壁の一部は歴史的なる建造物として残された。。 |
2022年10月15日 中国の核実験(1964年10月16日) |
1964年10月16日、東京オリンピック開催の最中、中国が初の核実験を新疆ウイグル自治区ロプノールの実験場で行った。爆発力はファットマンと同等の22キロトンだったが、プルトニウムではなく高濃縮ウランを使用していた。 当初、中国はソ連と協定を結んで直接的支援を受けて核兵器開発を進めた。しかし60年には中ソ対立のあおりでソ連の技術者たちが引き揚げ、援助は中止された。中国はその後の4年で濃縮工場を完成させ、ウラン濃縮に成功した。 66年5月には250キロトンの増幅型原爆実験、67年6月には3.3メガトンの水爆実験を行った。中国は63年に発効した地下以外での核実験を禁じる部分的核実験禁止条約に参加せず、大気中での核実験を80年まで続けた。 中国が最後に核実験を行ったのは96年7月29日。これまでロプノールで行われた実験回数は47回で、成功したのは45回という。すべての核爆発を禁じた包括的核実験禁止条約には96年9月に署名はしたが批准はしていない。 |
2022年09月25日 JCOの臨界事故(19991年9月30日) |
1999年9月30日、茨城県東海村にある原子炉燃料を製造するJCO東海事業所で臨界事故が起きた。日本で初めて原子力施設従業員が重篤な急性放射線障害で死亡。半径10km圏内の住民約31万人に屋内退避が要請された。。 当時、JCOでは高速増殖試験炉「常陽」で使う20%中濃縮ウランを製造していた。作業効率を上げるようと許可されていない違反行為を重ねた結果、容器内で核分裂が持続して「裸の原子炉」が出現し、3人が大量の中性子を浴びた。 この「原子炉」を止めるために配管を破壊して冷却水を抜き取ることになった。一定量の被ばくは避けられないため30代後半の社員16人が選ばれ、1人1分の決死の作業を行った。臨界が終息したのは発生から20時間後だった。。 急性放射線障害を起こした3人のうち2人は懸命な治療も空しく死亡。作業や救助に当たった職員、消防隊員や周辺住民ら667人が被ばく。裁判ではJOCと所長や現場責任者ら6人が有罪となり被害者に計約154億円を支払った。 |
2028年08月25日 ウクライナの独立(1991年8月24日) |
1991年8月24日、ウクライナが独立を宣言し、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。背景には改革・解放を求めるウクライナ民族運動があった。国会も民主化され、国民投票の圧倒的な支持によって独立が達成された。 91年7月、米ソ間で戦略兵器削減条約(START)が調印されるが、ソ連は同年12月に崩壊。後継国家のロシア以外に核兵器が配備されていたベラルーシ、カザフスタン、ウクライナがSTARTの当事者となった(リスボン議定書)。 1,240発の核弾頭が残されたウクライナは核抑止力や外交上の切り札を保持することを望んでその放棄に抵抗する。しかし94年2月にSTARTを批准し、同年12月にNPTに加入した。核弾頭のロシアへの移送は96年6月に完了。 94年12月、米英ロがNPTに加入した旧ソ連の3カ国の主権・国境を尊重し、安全を保障するブダペスト覚書が交わされた。だがロシアは覚書を反故にし2014年にウクライナのクリミアを併合、22年にはウクライナを侵略した。。 |
2022年08月05日 保安庁の発足(1952年8月1日) |
1952年8月1日、総理府(現内閣府)に国防組織として保安庁が設置された。48年5月に、運輸省(現国土交通省)に設立された非軍事組織の海上保安庁と、50年8月にGHQの命で設立された警察予備隊などの統合が目的であった。 51年9月に講和条約が調印され、その発効180日後に警察予備隊は根拠を失うために新たな立法措置を必要とした。一方で旧海軍関係者はその流れを汲む組織「海上警備隊」を52年4月に海上保安庁内に設置することに成功する。 海上警備隊は約3か月後、発足した保安庁に移管され「警備隊」となった。警察予備隊も移管され、52年10月に「保安隊」として再編された。一方、海上保安庁は「海上保安局」として改組され、保安庁へ移管されるはずであった。 しかし海上保安庁側が猛反発し、保安庁へ移行する法律は54年7月1日に廃止となり、現在も非軍事組織として存続している。同日、保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊に、そして保安庁は防衛庁(現防衛省)となった。 |
2022年07月15日 米原子力空母ロナルド・レーガン就役(2003年7月12日) |
2003年7月12日、米原子力空母「ロナルド・レーガン」が就役した。存命中の元米大統領の名が空母に命名されるのは史上初。他にもマーシャル諸島のクワジェリン環礁のミサイル試射場に「レーガン」の名が付けられている。 11年3月11日、東日本大震災後が発生。米韓合同演習のために西太平洋を航行中だった「ロナルド・レーガン」は本州の東海岸域で「トモダチ作戦」を展開。戦闘機は役に立たず、広大な甲板は米軍と自衛隊のヘリ発着場となった。 同年4月4日、洋上拠点としての任を終え、通常任務に戻った「ロナルド・レーガン」を北沢防衛大臣が訪問して謝意を伝えた。その後、同艦は4月19〜22日に随伴艦2隻とともに「休養・補給・維持」目的で佐世保に寄港した。。 15年10月1日、「ジョージ・ワシントン」に代わって「ロナルド・レーガン」が横須賀に配備となった。毎年の定期整備に伴って原子炉周辺から出る放射性物質を、日米合意に反して艦外に搬出し、貨物船で米本土へ輸送している。 |
2022年06月25日 南極条約の発効(1961年6月23日) |
1961年6月23日、南極条約が発効した。この日までに南極における調査研究に国際協力体制を築いていた12か国が批准をした。現在締約国は54か国で、うち29か国が南極で観測基地の設営や学術調査を継続的に実施している。 20世紀になるとイギリスなど数か国が南極に領有権を主張し始めた。氷層や周辺水域に眠る膨大な資源を独占すれば大規模紛争へと発展しかねないため、各国の私利私欲を排除して平和裏に利用できるように南極条約が生まれた。 南極条約は、南極地域における科学的調査について国際協力の促進を謳っている。そのためかつて主張したことのある南極地域における領土主権または領土についての請求権は、承認も否認もせずに現状のまま凍結されるものとした。 また条約は、南極地域の平和的利用を確保するため、軍事基地及び防備施設の設置、軍事演習の実施、あらゆる型の兵器実験、すべての核の爆発および放射性廃棄物の処分を禁止した。世界で最初の非核兵器地帯条約でもあった。 |
2022年05月25日 パキスタンの核実験(1998年5月28日) |
1998年5月28日、パキスタンが初めての地下核実験(コードネーム:チャガイI)を行った。濃縮ウランによる核分裂爆弾で大型装置1つと小型装置4つを同時に爆発させたという。爆発力はそれぞれ32キロトンと各1キロトン。。 これはインドが同年5月11日と5月13日に行った核実験に対抗したものだった。パキスタンは1972年に核兵器開発計画をスタートさせ、中国の援助や闇市場からの部品購入によって82年にはウランを兵器級にまで濃縮した。。 現在、パキスタンは核兵器用の濃縮ウランを4トン、プルトニウムを0.5トン保有し、その一部を弾頭化しているとみられる。その数は165発程度であり、この間の増加傾向が維持されれば2025年には200発になるという推測も。。 インドも同様であり、背景には両国が国境を接するカシミール地方の領有権をめぐる根深い対立がある。事故や誤解、誤認が偶発的な核兵器使用を招く危険性が常に存在する。外交努力による信頼醸成こそが真の安全保障につながる。 |
2022年04月15日 チェルノブイリ原発(1986年4月26日) |
1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号機で史上最悪の原子力事故が発生した。原子炉と建屋が破壊され、火災も発生して大量の放射性物質が周辺に放出され、約13万5千人が避難し移住させられた。 放射性物質の飛散を防ぐため、原子炉を囲い込むコンクリートの「石棺」が急遽つくられた。2018年末に、老朽化が進む石棺を丸ごと覆う巨大な鋼鉄製シェルターが完成し、石棺の一方で4号機以外の3つの原子炉は程なくして運転が再開された。その後、1、2、3号機はそれぞれ96年、91年、00年まで運転を続けた。これらの使用済み燃料は20〜30年が経ており放射能レベルと発熱量は大幅に下がった。 今年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵略し、直後にチェルノブイリ原発を占拠した。冷却水の停止は大きな問題ではなく、一番の危惧はシェルターや使用済み燃料への攻撃による、閉じこめられていた放射性物質の飛散だった。 |
2022年03月25日 バングラデシュの独立宣言(1971年3月26日) |
1971年3月26日、東パキスタンが独立宣言をしバングラデシュ人民共和国が誕生した。隣接するインド東部のベンガル州とあわせてこの地域をベンガル地方という。バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。 1947年8月、英領インド帝国内の独立運動の対立からヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をした。その結果、インドの東西に1,000kmも離れて、国家としては1つのパキスタンが誕生した。。 政治経済文化の中心は西であり、言語の異なる東が独立を志向。インドとカシミール帰属で対立していた西が軍を空輸して武力鎮圧を試み内戦状態に。これにインドが東の独立を支援して軍事介入を行う。西は降伏し、独立を承認した。 インドとパキスタンは1998年に競うように核保有国となった。ともに160発程度の核兵器を保有し、包括核実験禁止条約には署名すら拒否。バングラデシュは核兵器禁止条約に賛同し、2017年9月に署名し19年9月に批准した。 |
2022年03月05日 「満州国」の建国(1932年3月1日) |
1932年3月1日、関東軍は中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」を建国させた。「五族共和」「王道楽土」をスローガンに、元首には執政として旧清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀を担ぎ上げた。2年後には溥儀が皇帝として即位した。 日本は、日露戦争で獲得した関東州と南満州鉄道の利権を守るために関東軍を設置。関東軍は次第に権限と戦力を拡大させて発言力を増す。1931年に柳条湖事件を仕組んだ関東軍は治安維持・邦人保護を口実に満洲全土を制圧した。 33年、関東軍はさらに権益を拡大するために南部へ侵攻する。これに対し国際連盟総会は撤退勧告決議を行うが「満州国」維持のため日本は国際連盟を脱退し孤立する。その後の盧溝橋事件を機に戦線を拡大し日中全面戦争に突入。 45年2月のヤルタ会談で、南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理、大連をソ連の租借地とする見返りにソ連は対日参戦を確約。8月8日、ソ連軍が関東軍を攻撃し、その後の日本降伏を経て、8月18日に溥儀が退位し満洲国は滅亡。 |
2022年02月15日 実用GPS衛星の打ち上げ(1989年2月14日) |
1989年2月14日、ケープ・カナベラル米空軍基地(現在は宇宙軍基地)からデルタⅡロケットが打ち上げられ、初の実用的なGPS衛星USA-35が地球周回軌道に投入された。これまでに66基が投入され、現在は29基が運用中。 GPS機器は4機のGPS衛星からの正確な発信時刻の信号を受信して自身の3次元的位置を割り出す。衛星は20,200km上空の6つの円軌道に4機以上が配備され、12時間で地球を周回する。位置の誤差は通常10m程度。 1983年9月1日、空路に迷った民間の大韓航空機がソ連領空を侵犯し、戦闘機に撃墜される事件が起きた。11日後、レーガン米大統領は軍事用として秘密裏に開発していたGPSを公表し、非軍事的な用途にも開放すると表明をした。 2018年から利用サービスの始まった日本の準天頂衛星システムはGPSを補完・補強するものとして開発され、位置の誤差は数cm。防衛省はすでに敷設艦と潜水艦救難艦に受信機を設置し、4隻のいずも型護衛艦にも設置予定。 |
2022年01月25日 チューレ空軍基地米軍機墜落事故(1968年1月21日) |
1968年1月21日、水爆を4発搭載した米戦略爆撃機B-52Gがグリーンランド(デンマーク自治領)のチューレ米空軍基地の西12kmの海氷上に墜落した。核爆発には至らなかったが、起爆用爆薬の爆発で核物質が飛び散った。 1960年代に入ると米国は核兵器を搭載したB-52をソ連国境付近に常時警戒飛行させておく作戦を開始する。迅速な先制攻撃や報復攻撃能力を確保するためである。この日も長崎原爆の50倍の威力のB28核爆弾を4発積んでいた。 事故は寒い機内の温度を上げるためエンジンの排気管からの熱の一部をヒーターに足そうとして起きた。ヒーターの故障で機内が高温となり可燃物が発火し火災に。操縦は不可能となり、乗員は脱出し、無人となったB-52は墜落した。 ミサイル技術の進歩もありB-52爆撃機の常時警戒飛行は中止された。将来の核事故が先制攻撃と誤認されないよう米ソはホットラインの利用に合意した。また強い衝撃でも爆薬が爆発しない低感度高性能爆薬の開発が進められた。 |