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『平和新聞ながさき版』
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2021年12月25日 ラジウムの発見(1898年12月26日)

1898年12月26日、マリー・キュリーはウラン鉱石から新しい元素を分離・精製したと発表。非常に強い放射線を出すことから、「放射」を意味するラテン語からラジウムと名付けられた。1903年にノーベル物理学賞を受賞する。

96年にベクレルがウランから放射線が出ていることを発見。マリーは鉱石中のウランを純粋に精製すると放射線が非常に弱くなることに気づく。つまりウランからとみられた放射線はウランが変わったラジウムからのものが大半だった。

マリーの夫のピエールは、ベクレルがラジウムの放射線で皮膚障害を起こしたことを知り、医療への応用を追求する。「ラジウム療法」である。しかし放射線防護の知見は確立せず、ラジウムに対する過信から多くの悲劇を生んだ。

1910年、ラジウム1gの放射能量の単位に1キュリーが採用された。53年には元素によらず、1秒間に370億個の原子が別の種類に変わる放射能量を1キュリーと再定義。75年には1秒間に1個の変化量が1ベクレルとされた。

2021年12月05日 キルギスの建国(1936年12月5日)

1936年12月5日、キルギス・ソビエト社会主義共和国がソ連の構成共和国として発足した。91年8月のソ連クーデターの失敗により、キルギスタン共和国として独立。翌年に国際連合に加盟し、93年にキルギス共和国に改称した。

米国は2001年12月に対テロ戦争支援の拠点としてマナス国際空港に空軍基地を設置した。05年2月の議会選挙での不正をきっかけとして反政府運動が激化しアカーエフ政権が崩壊し、バキーエフ元首相が大統領選挙で当選する。

バキーエフ政権は米軍基地の年間200万ドルの使用料の100倍化を要求した。交渉の結果、年間1,700万ドルと支援金15,000万ドルで妥結。その後、ロシアの20億ドルの支援を背景に09年2月に米軍基地閉鎖の方針を決める。

しかし米オバマ政権は年間6,000万ドルの使用料を払い、基地を非軍事物資の「中継輸送センター」とすることに合意。13年6月、アタムバエフ政権は基地契約を延長しない旨決定し、14年7月、米軍はキルギスから撤退した。

2021年11月05日 パナマの独立(1903年11月3日)

1903年11月3日、パナマがコロンビアから独立した。当時、米国は太平洋と大西洋をつなぐ運河をパナマ地域に建設する権利を得ようとしたがコロンビアが拒否。パナマ独立派の蜂起に乗じて海軍を派遣して独立を成功させた。

米国はパナマ独立承認の条件として運河条約を結ばせた。これは幅16kmの運河地帯の主権を永遠に米国に与えるもので、パナマは米国によって事実上支配されることになった。パナマ運河は米国の手によって1914年に開通した。

しかし、パナマ国民の不満は次第に高まり何度も米国と衝突がくり返される。クーデターで実権を握ったトリホスは運河返還を米国に要求。米カーター政権は1977年、パナマ返還条約を結び、99年末の返還と米軍撤退を約束した。

その後、親米ノエリガ政権が誕生するが米国は危険な政権だとして軍事侵攻し、親米エンダラ政権を誕生させる。しかし94年の大統領選挙で落選し、バヤダレス政権が誕生。運河は返還され米軍も撤退し、米国の支配から独立した。

2021年10月15日 キューバ危機の勃発(1962年10月16日)

1962年10月16日、キューバにソ連の核ミサイル基地建設が発見され、米ソが一触即発の状態に陥った—「キューバ危機」である。59年に誕生したキューバ革命政権は米企業所有の農地を接収して米国に敵視され、ソ連に接近した。

米国が政権転覆を何度も企てたことでキューバとソ連の関係は緊密化する。キューバは最新兵器の供与を求めたがソ連は米本土を直接核攻撃できる中距離弾道ミサイル配備を押し付けた。劣っていたミサイル攻撃能力の挽回が狙いだ。

米国は様々な選択肢を検討した結果、基地への兵器搬入を阻止する「海上封鎖」を強行した。事態が進まない場合は空爆へ移行。ソ連はトルコ配備の米核ミサイル(ジュピター)撤去をキューバ基地解体の交換条件に出してきた。

最終的にソ連が11月中に基地とミサイルを撤去して危機は去った。ジュピターも63年4月に撤去完了。この間の米ソのやり取りは時間のかかる書簡を通してだった。63年6月、首脳同士が直接対話するホットラインが開設された。

2021年09月15日 コスタリカの独立(1821年9月15日)

1821年9月15日、コスタリカがスペインから独立し中央アメリカ連邦の一角となった。その後、連邦は崩壊して1848年に共和国となったコスタリカは1869年に無償義務教育制度を導入し、1882年には死刑制度を廃止する。

1948年に樹立した革命政府でホセ・フィゲーレス大統領は、軍隊を廃止し電力を国営化した。その後、コスタリカは周辺諸国で続く紛争や内戦を仲裁して終結させた。その功績で1987年にアリアス大統領がノーベル平和賞を受賞。

「丸腰国家」としての地位を確立したコスタリカは、次のステップとして「環境」にシフトする。再登板したアリアス大統領は2007年に「再生可能エネルギー100%発電」「カーボン・ニュートラル」をめざす宣言を発布した。。

与党や大統領が交代してもこの宣言は継承され、2015年に「再生可能エネルギー100%発電」は実現した。その実績を背景にホセの娘のクリスティアーナは気候変動枠組条約締約国会議の事務局長として「パリ協定」を締結させた。

2021年08月25日 ベルギーの独立革命開始(1830年8月25日)

1830年8月25日、ベルギーで独立革命が始まった。オランダとフランスに挟まれ、植民地の支配国は1815年にフランスからオランダに変わった。1か月前のフランス7月革命の影響を受けて人々が蜂起し翌年7月に独立を勝ち取る。

その後、ベルギーは1885年から1960年までアフリカのコンゴを植民地とした。第一次、第二次世界大戦ではいずれもドイツに占領された。戦後は中立主義を放棄し、NATOに加盟。米国と戦術核兵器を共有する政策を採ってきた。

ベルギーはオランダ語が公用語の北部地域と、フランス語が公用語の南部地域の歴史的な対立がある。この緩和のために93年の憲法改正で連邦制に移行したが、いまだ地域間対立は厳しく、正式な政権が長期間存在しないことも。

2019年5月に実施された選挙後も連立交渉が難航し、7党による連立政権が発足したのは20年10月。だが連立合意には「核兵器禁止条約への前向き姿勢」が明記された。そして閣僚20人の平均年齢は44歳、半数を女性が占める。

2021年08月05日 ベルリンオリンピック開幕(1936年8月1日)

1936年8月1日、ベルリンオリンピックが開幕した。32年に政権についたヒトラーはオリンピックを「ユダヤ人の祭典」だとして開催に難色を示した。しかし「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて同意した。

ヒトラーは反ユダヤ主義と拡大主義の政策を中断し、平和で寛容なドイツのイメージを外国の観客に印象付けた。ギリシャのオリンピアで聖火を採火し、松明を開会式会場まで運ぶトーチリレーはとくに若者をナチ党へ惹きつけた。

ベルリン大会の3年後、ドイツのポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し、開催の決まっていた40年のヘルシンキ大会、44年のロンドン大会は中止となった。戦後、ロンドンは48年、ヘルシンキは52年に開催となった。

実は40年の開催地は東京であった。しかし日中戦争を引き起こし、物資や兵士を取られる軍部の反対などから38年に実施を返上し、誘致で次点だったヘルシンキが代替となった。返上から26年後の64年に東京大会が開催された。

2021年07月15日 初の核実験トリニティ(1945年7月16日)

1945年7月16日、米国ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で史上初の核実験トリニティが実施された。後に長崎に投下される「ファットマン」と同じ心臓部である「ガジェット」を爆発させ、その威力をはかるためであった。

ガジェットは高さ30mの鉄骨やぐらにセットされた。鉄骨は足元を残して蒸発。深さ3m,直径330mのクレーターが残った。エネルギーはTNT爆薬21キロ㌧相当とされ、その72%がプルトニウム、残りはウランによるものだった。

実験結果はポツダムでスターリンと会談中のトルーマンに伝えられたが、交渉を有利に運ぶには至らなかった。情報は筒抜けだったのである。トリニティは長崎への原爆投下後の8月12日に発表されたスマイス報告で公となった。

1965年、爆発跡地には鉄骨やぐらを模した、溶岩でできた四角錐型の記念碑が建てられ、翌年には周辺2万haが国史跡に指定された。全体は陸軍のミサイル実験場内にあり、年に2回、4月と10月の第1土曜日にだけ開放される。

2021年06月25日 オブニンスク原発の稼働(1954年6月27日)

1954年6月27日、ソ連で世界初の原子力発電所オブニンスクが送電を開始した。原発といっても商業炉にはほど遠い原型炉で、電気出力は5,000kWだった。発生したエネルギーのうち電気となる割合は現在の半分の6分の1。

ソ連の最初の核実験は1949年8月29日。オブニンスク原発の建設開始はそれから1年4か月がたった51年1月1日。米国は核エネルギーを潜水艦の動力源として利用する道を選んだが、ソ連は早くから電力生産をめざした。。

今では信じられないことだが、55年9月にジュネーブで開催された第1回原子力平和国際会議でソ連はオブニンスク原発について61頁にわたる詳細な報告書を提出した。米国のアトムズ・フォー・ピース政策への対抗かもしれない。

オブニンスク原発を改良して実用規模のベロヤルスク1号機が建設され、その後、チェルノブイリ原発まで進化を遂げる。この炉型は格納容器がない欠陥炉がゆえに惨事を招く。2002年4月29日にオブニンスクは運転を終了した。

2021年06月05日 マーシャル・プラン(1947年6月5日)

1947年6月5日、米国務長官マーシャルがヨーロッパ経済復興援助計画=マーシャル・プランを発表した。ヨーロッパ諸国の戦後復興に米国が大規模な援助を提供し、経済を安定させて共産主義勢力の浸透を防止する狙いがあった。

この年の3月12日、トルーマン大統領は議会の一般教書演説で、ソ連によって東欧諸国が「共産化」し、その影響が及んだギリシャ・トルコの革命闘争を鎮圧するため経済・軍事援助を行い、「共産主義封じ込め」をはかると宣言した。

西欧の16か国がこれを受け入れて総額122億ドルの「援助」を手にする。フランス、イタリアは引き換えに共産党、社会党の閣僚を追放した。西欧の資本主義国は復活し、米国の経済的支配下に置かれ、NATOの経済的基礎となった。

ソ連は東欧諸国に圧力をかけてマーシャル・プラン受入を拒否させた。共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)を創設して引き締めるにかかり、さらに経済相互援助会議(コメコン)を組織する。こうして冷戦構造は確立していった。

2021年05月15日 イスラエルの建国宣言(1948年5月14日)

1948年5月14日、イスラエルが建国を宣言した。前年に国連はパレスチナを分割してユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家を建設する勧告案を採択した。人口の30%のユダヤ人に56%の土地を与える案にアラブ諸国は反対した。

建国翌日にアラブ連合軍がイスラエルに侵攻して第1次中東戦争が勃発。最終的はイスラエルが勝利して国連分割案よりも広い領域を占領することに。国連への加盟も認められ、散り散りだったユダヤ人が移住して人口は倍増した。

「パレスチナ問題」の遠景はパレスチナの地がユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教の聖地だったこと。ユダヤ人はその戒律のために他の民族から差別・迫害され、故郷を失った。それが逆に神から選ばれし民という自負となった。

イスラエルの建国で今度はパレスチナ人がユダヤ人と同じような境遇に陥る。相次ぐイスラエルの攻撃による占領、故郷喪失や難民化で民俗的アイデンティティが形成される。1988年11月15日、パレスチナ独立宣言が発表された。

2021年04月15日 国際司法裁判所の開所(1946年4月18日)

1946年4月18日、国連の主要機関のひとつである国際司法裁判所(ICJ)が開所した。オランダのハーグに本部を置き、国家間の法律的紛争について裁判を行ったり、国連総会や国連安保理などの要請に応じて勧告的意見を与える。

94年12月、国連総会が「核兵器による威嚇やその使用は、何らかの状況において国際法の下に許されることがあるか」と諮問。96年7月、ICJは「核兵器による威嚇やその使用は、特に国際人道法に一般的には違反する」と判断した。

しかし一方で「国家存亡の危機のような自衛の極端な状況下では、合法か違法か最終的な結論を下すことができない」とした。これは核保有国を喜ばせることになった。判事の判断は「賛成7,反対7」で裁判長が賛成して採択された。

判断の背景には「核兵器を禁止するいかなる包括的かつ普遍的な国際法も存在しない」こともあった。しかし核兵器の開発から実験、製造、保有、使用、威嚇まで禁止する条約が発効した。再び諮問があれば明確に違反とされるだろう。

2021年03月25日 ストックホルム・アピール発表(1950年3月19日)

1950年3月19日、世界平和擁護大会常任委員会第3回総会で原子兵器の禁止を呼びかけるストックホルム・アピールが採択された。ソ連の原爆保有声明や米国の水爆製造命令など核軍備競争激化による国際緊張が高まっていた。

ストックホルム・アピールは原子兵器の無条件使用禁止、厳格な国際管理の実現、最初の使用国を人類に対する犯罪者とみなすというもの。これに賛同する署名は社会体制の違いを越えて瞬く間に広がり、8か月後に5億筆に達した。

この年の2月、戦争の道に逆戻りさせるなという国民の声にこたえて、日本平和委員会の前身である「日本平和を守る会」が結成され、民主主義擁護同盟とともに精力的に署名を呼びかけ、米占領下であったが645万筆を集めた。

この年の6月に朝鮮戦争が勃発。米国は膠着状態打破のために原爆使用を検討したが、この署名運動の高まりの中で断念。ストックホルム・アピール署名は戦後の平和運動の輝かしい伝統として、各国の運動に引き継がれていった。

2021年03月05日 対人地雷禁止条約の発効(1999年3月1日)

1999年3月1日、対人地雷の「使用、開発、生産、貯蔵、保有、移譲などを禁止」する対人地雷禁止条約が発効した。条約で禁止される諸活動を他国に援助、勧誘、奨励することも禁止され、締約国は国内法の整備が義務づけられる。

対人地雷は、非人道的な効果を有する特定の通常兵器の使用禁止・制限をする条約の議定書で規制されていたものの、年間2万人を超える犠牲者が出ていた。1992年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)が発足し、議定書を改定させた。

だが大国の思惑で全面禁止には至らなかったため、カナダを中心に国連、国際赤十字などと市民社会が力を合わせて禁止条約がつくられた。ICBLは「対人地雷の禁止および除去に対する貢献」で、97年にノーベル平和賞を受賞した。

現在の締約国は164カ国で「大国」は入っていない。しかし対人地雷の最近の使用例はミャンマーだけであり、米国・ロシア・中国も生産を中止。ICBLは詳細な検証を行い、地雷禁止が国際規範となっている。核兵器禁止条約も続け!

2021年02月15日 えひめ丸沈没事故(2001年2月10日)

2001年2月10日、ハワイ沖で愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が緊急浮上した米海軍の原子力潜水艦グリーンビルに衝突され沈没した。26名は救出されたが、取り残された生徒4人と教員・船員5人が亡くなった。

このときグリーンビルは、潜水艦の建造予算を確保する世論醸成の一環として16人の民間人を司令室に招いて遊覧航海をしていた。海中を高速で急旋回や上昇・下降といったジェットコースターのような操縦をくり返し行っていた。

そして120mの深さから一挙に海上へ飛び出す緊急浮上を行い「えひめ丸」に衝突してしまった。1時間前にはソナーでその存在に気づきながらも、水中で極端な操縦をしたことで追跡が途絶え、直前の潜望鏡での安全確認も怠った。

えひめ丸事故から20年となる今年2月8日、足摺岬沖で海自潜水艦「そうりゅう」が浮上中に巨大貨物船と衝突し損傷、3人負傷。貨物船に被害はなかったが漁船だったら大惨事にも。ソナーによる確認・判断ミスが原因か。

2021年01月25日 初の原潜ノーチラスが進水(1954年1月21日)

1954年1月21日、米国で世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」が進水した。同年12月30日に原子炉が臨界に達し、翌55年1月17日に原子力航行に成功し、潜航可能なだけの「潜水艦」から水中活動を任務とする真の潜水艦となった。

ウランの核分裂が発見されて間もない1939年3月、米海軍研究所のロス・ガンは核分裂のエネルギーで推進する潜水艦を構想した。戦後、これを研究し具現化したのが海軍艦艇局の核動力部長のハイマン・リッコーバーだった。

リッコーバーは船体よりも原子炉の設計・製造を先行させた。ウェスティングハウスが高濃縮ウランを使用する加圧水型原型炉S1Wを完成させ、陸上での連続運転試験を続ける。改良を加えた実用炉S2Wがノーチラスに搭載された。

一方、Atoms for Peace 政策による最初の原発「シッピングポート」が57年12月に臨界となる。原子炉は中止となった空母用で、当初の燃料は14㌧の天然ウランと75㌕の93%高濃縮ウランだった。計画の責任者はリッコーバー。

2020年