『平和新聞ながさき版』
欄外100字×4のミニコーナー
2020年12月25日 ソ連邦の結成(1922年12月30日) |
1922年12月30日、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が結成された。当時の構成はロシア連邦、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカース連邦(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの連合)の各ソビエト社会主義共和国。 当時、各共和国の統合を進めていたスターリンは、ロシア連邦へ他の共和国を「自治共和国」として加盟させる計画だった。しかし病床にあったレーニンはこれはロシアへの併合と厳しく批判し、民族自決権に基づく連邦結成を主張した。 調印されたソ連結成条約では、ソ連は「平等な権利を持つ諸民族の自由意志による統合体」と明記された。しかしレーニンの死後、スターリンはこの規定を踏みにじる。40年にはドイツとの秘密協定にもとづきバルト3国を併合する。 85年にゴルバチョフが登場すると各地で民族独立・主権確立の動きが高揚する。91年9月にバルト3国が独立を遂げ、同12月21日、グルジアを除く構成11共和国が「独立国家共同体」を創設してソ連の廃止を宣言する。 |
2020年12月05日 INF条約の調印(1987年12月8日) |
1987年12月8日、米国とソ連はINF条約を調印した。これは射程が500kmから5,500kmまでの範囲の陸上発射型の弾道ミサイル及び巡航ミサイルを全廃する条約で、期限内に米国が846基、ソ連が1,846基を破棄した。 条約は核弾頭の廃棄を義務づけるものではないが結果的にこの射程を飛ぶ核ミサイルは存在しなくなり、ヨーロッパが米ソの代理戦場となる危険性は減った。重要だったのはミサイル装備の廃棄状況の確認を相互が行えたことである。 INF条約を機に米ロの核弾頭数は激減をしピーク時の20%までになった。しかしトランプ政権はロシアの配備した陸上発射型ミサイルを条約違反と断定し、離脱を通告した。両国が非難しあう中、同条約は19年8月に失効した。 条約の対象外の空中発射型や海洋発射型の巡航ミサイルで優位に立つ米国だが、台頭する中国の陸上ミサイルに対抗するためにロシアの違反を口実にしたきらいがある。おそらくバイデン政権となっても大きな変化はないだろう。 |
2020年11月05日 史上初の水爆実験(1952年11月1日) |
1952年11月1日、米国はマーシャル諸島のエニウェトク環礁で人類史上初となる水爆実験「マイク」を実施した。水爆は、原爆の炸裂で生まれる高熱を利用して重水素を核融合させ、その時に出るエネルギーを破壊に使う熱核兵器。 水素は気体で密度が低いので極低温にして液体水素に変えた。そのため巨大な冷却装置が必要で重量が70トンを超える巨大な実験室となり実用兵器には程遠いものとなった。だが威力は10.4メガトンで長崎原爆のざっと500倍に。 マイクの装置が置かれたエルゲラブ島は爆発後、跡形もなく消滅し、直径1.9km、深さ50mの巨大なクレーターが出現した。核分裂を利用した原爆の威力の上限は0.5メガトンだが、水爆には理論上は上限がないと考えられている。 その後、液体水素の代わりに水素とリチウムの化合物固体を利用することで水爆は小型化に成功。核実験を繰り返してより小型化され爆撃機に、さらにはミサイルに搭載ができるようになって世界は核攻撃の恐怖にさらされる事態に。。 |
2020年10月15日 宇宙条約の発効(1967年10月10日) |
1967年10月10日、「宇宙条約」が発効した。月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用の基本原則を定めたもので、一定の軍事的利用の禁止をうたっている。だが当時の米ソの核戦略上の必要と矛盾しないように配慮された。 宇宙条約は、天体上への軍事基地設置、兵器の実験ならびに軍事演習を禁止している。核兵器その他の大量破壊兵器は天体上への設置は禁止だが、宇宙空間への配備とそれらを運ぶ物体を地球周回軌道に乗せることは義務に留まる。 その後、宇宙条約の強化をめざす条約案が検討されたが、禁止する「宇宙兵器」の定義に一致点はなかった。実は「宇宙空間」と領空の画定もされていない。一方で米国は宇宙空間からの弾道ミサイル迎撃を視野に入れた戦略を掲げた。 2008年、ロシアと中国は「宇宙空間への兵器配備を禁止する条約案」を提出。いかなる種類の兵器の天体への設置と宇宙空間への配置、これを運ぶ物体の地球周回軌道投入をしないこと。米国の構想を縛る条約案は未審議のままだ。 |
2020年09月25日 横浜米軍機墜落事故(1977年9月27日) |
1977年9月27日の午後1時過ぎ、米海兵隊岩国基地所属の偵察機(RF-4BファントムII)が厚木基地から相模湾沖を航行中の空母ミッドウェイに向けて離陸直後に、火だるまとなって横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落した。 米軍から連絡を受けた自衛隊は救難ヘリを厚木基地から緊急発進させたが、大やけどを負って救助を求めている被災者を助ける事はせず、墜落前にパラシュートで脱出したほぼ無傷の米軍パイロット2人を収容して基地に帰還した。 付近で宅地造成工事をしていた人達による必死の救出活動が行われ、9人が救急車で病院に運ばれた。うち3歳と1歳の兄弟は全身火傷で死亡。その母親も70回にも及ぶ皮膚移植手術を繰り返すも、4年後に失意のうちに死去した。 事故調査は日米合同委員会で行われたが米側に一次調査権があるため日本独自の調査はできず、78年1月、エンジンの組み立てミスが原因でパイロットらは無過失と結論づけられた。神奈川県警も書類送検したが不起訴処分とされた。 |
2020年08月25日 ダンバートン・オークス会議(1944年8月21日) |
第二次世界大戦の最中の1944年8月21日、国際連合設立に関する会議がワシントンD.C.のダンバートン・オークスで始まった。9月28日までアメリカ・イギリス・ソ連で協議、翌日から10月7日まではソ連にかわり中国が参加。 41年8月の米英首脳会談で平和機構の再建を含む大西洋憲章が発表され、42年1月に連合国26か国が大西洋憲章を戦後構想原則とすることを確認。43年10月の米英ソ外相会議が平和機構設立の必要を表明した(中国賛同)。 ダンバートン会議では大筋が合意されたが、安保理事会の常任理事国に拒否権を与えるかどうか、ソ連内16共和国の参加を認めるかどうかで、米英とソ連の間で対立した。これらは45年2月の米英ソのヤルタ会談に持ち越された。 ヤルタでは国連創設会議を4月にサンフランシスコで開催することで合意。拒否権問題は妥協案で決着した。ソ連内共和国問題は16から3か国とする案も出されたが合意できず、創設会議で白ロシアとウクライナのみを加盟国に。 |
2020年07月25日 朝鮮戦争の休戦協定(1953年7月27日) |
1953年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が締結された。午前10時、板門店で国連軍代表の米陸軍ハリソンと朝鮮人民軍・中国人民志願軍代表の南日が署名した。12時間後に休戦協定は発効したが韓国の李承晩は署名しなかった。 50年6月25日に北朝鮮の侵攻で始まった朝鮮戦争は中国軍の参戦で膠着状態となり一進一退が続く。中国と北朝鮮を後方支援し、戦争を後押したソ連のスターリンは休戦に消極的だったが金日成らとの会談で休戦協議に同意する。 51年7月10日、戦争を続けながらの休戦交渉が始まる。休戦に反対する韓国も交渉には参加。休戦ラインの位置で対立していたが最終的に現在対峙しているラインとし、その南北に2キロの非武装地帯を設置することで合意した。 それから67年、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」休戦状態が続いている。これを平和条約に転換できれば世界は大きく変わる。遅くとも3年以内に実現させたい。 |
2020年07月05日 アルジェリアの独立(1962年7月5日) |
1962年7月5日、アルジェリアが独立を宣言した。アルジェリアは1830年以来、フランス領だったが1948年に民族解放戦線が結成され、54年から独立戦争が始まる。フランス世論と軍はアルジェリア独立をめぐって分裂する。 58年、第二次大戦の英雄であるド・ゴールが国家体制を建て直し、60年年頭からアフリカ植民地の独立を次々に承認する。民族解放戦線が樹立したアルジェリア臨時政府との間で62年3月19日、和平協定を結び戦闘は終結した。 アルジェリアの独立は両国の国民投票にかけられた。62年4月8日、フランスは和平協定を賛成91%(投票率約75%)で承認。7月1日、アルジェリア国民は和平協定に基づく独立を、賛成99.72%(投票率約92%)で要求した。 フランス軍は和平協定で地中海に面する海軍施設の15年使用を認められ、ここを拠点にサハラ砂漠で核実験をくり返した。しかし5年後に全面撤退。2017年9月20日、アルジェリアはいち早く核兵器禁止条約に署名をした。 |
2020年06月15日 第二次戦略兵器制限交渉に調印(1979年6月18日) |
1979年6月18日、米国とソ連はウィーンで第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)に調印した。72年に調印されたSALT I の暫定協定は、両国の弾道ミサイル発射台数に上限を定めたが完全措置協定への更新ができず77年に失効した。 SALT I の上限はICBMサイロ:米国1,054、ソ連1,607。SLBM発射管:米国656、ソ連740だったあ。SALT II条約では、SALT I に加えて戦略爆撃機と空中発射弾道/巡航ミサイルの制限と、複数弾頭化の制限が盛りこまれた。 SALT II条約では、ICBMサイロ、SLBM発射管、戦略爆撃機と空対地弾道ミサイルの総数上限を両国とも2,400(82年頭には2,250)。内訳と検証についても細かく定められたが、ミサイルや核弾頭総数には制限は加えられなかった。 79年12月、ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、カーター大統領が批准承認延期を求め、SALT IIは立ち消えとなった。代わったレーガン大統領は82年に戦略核の大幅削減を目的とする交渉をソ連に呼びかけ、STARTとして結実する。 |
2020年05月15日 ワルシャワ条約機構の結成(1955年5月14日) |
1955年5月14日、北大西洋条約機構(NATO)に対抗して、ソ連と東欧の7か国による軍事同盟であるワルシャワ条約機構が結成された。これによってヨーロッパは少数の中立国を除き、2つの軍事同盟によって分割された。 直接の契機は西ドイツのNATO加盟である。敗戦でドイツは米英仏ソの四か国による占領下に置かれた後、49年に分断国家となった。西ドイツは55年5月に「主権の完全な回復」を宣言してNATOに加盟し、再軍備を行った。 68年、ワルシャワ条約機構加盟のチェコスロバキアが国家による事前検閲の廃止や市場経済方式の導入などの政策を打ち出す。これに対して機構の5か国軍20万人が侵攻して民主化を制圧した。アルバニアは抗議して脱退した。 89年、米ソ冷戦終結を前後して東欧諸国に革命の激震が起こる。ワルシャワ条約機構会議で、当時チェコスロバキアに介入した5か国はその誤りを認める。91年3月に軍事機構を廃止、7月に正式解散。12月にはソ連が崩壊した。 |
2020年04月15日 ゲッティンゲン宣言(1957年4月12日) |
1957年4月12日、当時の西ドイツで「ゲッティンゲン宣言」が発表された。1週間前のアデナウアー首相の核装備を要求する発言に対し、原子力研究に従事する著明な18人の西ドイツの研究者が一切の協力拒否の姿勢を示した。 当時は1954年3月のブラボー水爆で第五福竜丸などが被災。翌55年には原水爆禁止世界大会の開催、科学者によるラッセル=アインシュタイン宣言など、世界規模での反核運動が高まる中で西ドイツは再軍備を行いNATOに加盟。 宣言は「自由陣営」の存在意義と「恐怖の均衡」を是認しつつも西ドイツの核兵器保有に反対し、その製造、実験、使用に絶対に参加しないとした。日本でも翌々日に湯川秀樹・朝永振一郎ら25名の原子物理学者が賛同の声明を発表。 その後、西ドイツは米国の戦術核を受け入れた。ソ連のSS-20の東欧配備に対抗するNATO戦略の下、中距離弾道ミサイルと巡航ミサイル配備も受け入れた(INF条約で撤去)。現在も核共有戦略で20発の核爆弾を配備している。 |
2020年03月25日 スリーマイルアイランド原発事故(1979年3月28日) |
1979年3月28日、米ペンシルバニア州のスリーマイルアイランド原発2号機で炉心溶融事故が起きた。原子炉が臨界に達してちょうど1年目。放出された放射性物質は福島第一原発の100分の1でセシウムは放出されなかった。 冷却水が流れ出し、回復するまでに炉心の3/2が露出し、過熱によって45%が溶融したが圧力容器が頑丈でデブリは内部に止まった。事故の原因は機器の故障と、計器類の表示の不明用さ、運転員のミスによる複合要因とされた。 130トンのデブリは原子炉に水を張り、85年〜90年に水中で砕き取り出した。空冷容器に入れアイダホ研究所がロッキー山麓で保管している。福島原発では水を張れず、空気中で総計880トンと推定されるデブリを取り出すという。 この事故後、米国では新規原発が凍結されていたがオバマ政権は12年2月、34年ぶりに2ヶ所(4基)の新設を認可した。ところが請け負った東芝の子会社のウェスチングハウスが17年に倒産。2基は建設中止、東芝も撤退した。 |
2020年03月05日 MSA関連協定(1954年3月8日) |
1954年3月8日、日米間でMSA関連協定が締結された。「日米相互防衛援助(MDA)協定」「農産物購入協定」「経済措置協定」「投資保障協定」の4つで米国が日本の主権を侵し、政治的・軍事的・経済的に従属させる狙いを持つ。 米国はすぐさま日本に小麦60万トンや脱脂粉乳など総額5000万ドルの余剰農産物を押し付けた。この小麦を消費するために学校給食でパンとミルクの給食が定着させた。これを契機に日本人の食生活が欧米型へと傾斜していく 余剰農産物の販売代金のうち4000万ドルが米軍の取り分で日本の軍事援助などに使われた。政府はMDA協定に基づき防衛二法を強行成立させ、54年7月に総理府の外局として防衛庁を、その下に陸海空の三自衛隊を発足させた。 MDA協定第3条は「両政府の間で合意する秘密保持の措置」を義務づけた。防衛二法と併せて強行された「MSA秘密保護法」は米軍供与の装備品にかかる情報を「防衛秘密」とし自衛隊法の守秘義務違反より重い刑事罰を規定した。 |
2020年02月15日 フランスが初の核実験(1960年2月13日) |
1960年2月13日、フランスはサハラ砂漠内のアルジェリア中部で初の核実験を行った。コードネームは「青いトビネズミ」。トビネズミは砂漠などの乾燥地帯に生息する。2回目は白い〜、3回目は赤い〜。フランス国旗の色の順。 1963年10月に部分的核実験禁止条約が発効するが、核開発で遅れをとっていたフランスは加わらなかった。独立戦争中・後のアルジェリアで計17回、その後フランス領ポリネシアのムルロア環礁などで計193回の核実験を行った。 ミッテラン政権は1992年に核実験を一時中断したが、シラク政権が95年に再開し、96年の包括的核実験禁止条約の採択までに駆け込みで6回の核実験を行った。保有弾頭数は92年の540発をピークに減少し、現在は300発。 2009年12月、フランスで核実験被害者補償法が成立。対象は約15万人の核実験従事者と被爆の可能性のある数万人の周辺住民。しかし審査基準が厳しく約千件の申請中、補償が認められたのは約120件という(16年7月)。 |
2020年01月25日 ベトナム和平協定締結(1973年1月27日) |
1973年1月27日、パリで「ベトナム和平協定」が締結された。ベトナム民主共和国(北ベトナム)、ベトナム共和国(南ベトナム)、南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国の間で調印され、ベトナム戦争は終結することになった。 4者による交渉は69年1月から開始され、実に174回の会談が持たれた。協定にしたがって米軍は3月29日までに南ベトナムからの「名誉ある撤退」を完了した。しかし協定はベトナム問題の最終解決を示すものではなかった。 南ベトナムの将来は南の二つの政府に委ねられた。交渉が進展しない中で75年4月に北ベトナム軍が進攻してサイゴンが陥落、南ベトナム政府は無条件降伏した。翌年7月に南北は統一され、ベトナム社会主義共和国が成立した。 東南アジア諸国はベトナム戦争の中で、米国に従い武力対立による悲劇を体験した。しかしベトナム戦争後は自立の道を歩み始め、紛争の平和解決をうたう東南アジア友好条約を締結し、東南アジア条約機構(軍事同盟)は解体された。 |