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『平和新聞ながさき版』
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2019年12月25日 奄美群島の日本復帰(1953年12月25日)

1953年12月25日、奄美群島の施政権が日本に返還された。46年2月、北緯30以南のトカラ列島・奄美群島・琉球諸島が本土から行政分離されて米軍政府下に置かれた。本土への渡航禁止、集会・言論の自由も規制された。

しかし群民の日本復帰の思いは強く、51年2月に奄美大島日本復帰協議会が結成され、日本復帰請願署名運動が始まる。わずか3か月で14歳以上の住民の99.8%が署名。集団ハンガーストライキ、群民総決起大会も開かれた。

52年4月29日の群民大会では弔旗が掲げられた。この日、日米講和条約が発効し、その3条に基づいて北緯29度以南が今後は米国の信託統治下に置かれるようになった。同年11月、講和条約3条の撤廃署名は99.9%に達した。

圧倒的な民意の前に米国政府も統治を断念する。米軍施設も沖永良部島のレーダー基地程度しかなかったことも幸いした。53年8月にダレス米国務長官が奄美群島の返還声明を発表し、12月24日に返還協定が調印されたのである。

2019年12月05日 対人地雷禁止条約の署名式(1997年12月3日)

1997年12月3日、カナダのオタワで対人地雷禁止条約の署名式が行われた。99年に発効した条約は対人地雷の使用、貯蔵、生産等を全面的に禁止し、貯蔵地雷の4年以内の廃棄、埋設地雷の原則10年以内の除去を義務付けている。

条約が発効して20年、加盟国は164カ国となり、5,500万個以上が廃棄された。しかし未加盟のロシア・中国・米国を始め30カ国が約5,000万個を保有している。そして55カ国・4地域には依然として地雷が埋設されている。

地雷の生産国は50カ国以上あったが未加盟の米国などを含めて41カ国が中止した。この5年間の財政支援は約26億ドルでその9割以上が地雷除去やリスク教育に当てられている。驚くことに米国は9.5億ドルも供出している。

条約は、大国の同意が不可欠だった従来型の軍縮外交の常識を覆し、「小国」が人道主義でNGOと結びつき誕生した。クラスター爆弾禁止条約がそれに続き、次は核兵器禁止条約の番だ。現在34カ国が批准し19カ国が批准手続き中!

2019年11月25日 カイロ宣言(1943年11月27日)

1943年11月27日、カイロで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、中国の蒋介石総統が「カイロ宣言」に署名した。これは日本の無条件降伏要求と、降伏後の日本領土の決定などを内容としポツダム宣言の基礎となった。

カイロ宣言の主な内容は、第1次世界大戦後に日本が奪取し占領した太平洋上のいっさいの島を剥奪し、「満州」、台湾、澎湖島など日本が中国から盗みとった地域の中国への返還、朝鮮人民の奴隷状態に留意して朝鮮を独立させること。

3国は日本に対して領土不拡大を示したが、45年2月のヤルタ協定で、米英はソ連に対してドイツ降伏3カ月後の対日参戦を条件に、南樺太を返還し、千島列島を引き渡すという密約を与えた。戦後、ソ連は南樺太・千島を占領した。

さらに52年のサンフランシスコ講和条約で日本は独立と引き換えに、南樺太・千島の放棄、沖縄・奄美・小笠原の放棄・米国信託統治を飲ませられた。領土不拡大の国際規範が蹂躙され、沖縄には返還までに多大な基地がつくられた。

2019年10月25日 「明治改元」(1868年10月23日)

1868年10月23日(慶応4年。当時は旧暦9月8日)、明治改元の詔(みことのり)が発された。前夜、天皇睦仁は宮中での神楽奉納の儀式の後、名高い公卿たちが選んでいた2~3の元号候補から自らクジをひき「明治」が決まった。

江戸時代の元号は、朝廷が年号勘者に数十案を用意させ、天皇の目通の後に絞り込んだ数案を幕府に順位を付けて提出。幕府は朝廷の意向を追認して決定したという。江戸時代最後の孝明天皇は21年間の在位中に6回も改元を行った。

明治政府は一世一元の詔で天皇一代につき一元号とする一世一元の制を定めた。そして天皇に全国巡幸させ、国家支配の象徴としての天皇像を民衆に浸透させ、生き神信仰と天皇とを結び付けることによって近代天皇制が誕生する。

「一世一元の制」は皇室典範と登極令に法的根拠があったが日本国憲法及び現皇室典範の施行で消失。しかし1979年の元号法で復活した。そして今年10月22日、廃止されたはずの登極令にならい即位礼正殿の儀が執り行われた。

2019年10月05日 スプートニク1号の打ち上げ(1957年10月4日)

1957年10月4日、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。米国にとっては、2ヶ月後のヴァンガード計画での人工衛星の打ち上げ失敗ともあわせて大きなショックであり、宇宙開発競争に突入する。

翌年、米国はNASA(航空宇宙局)を設立し、人工衛星エクスプローラー1号の発射に成功する。続いてマーキュリー有人宇宙飛行計画を開始したが、61年4月、ソ連に大きく先を越され、ガガーリンが史上初の宇宙飛行士となった。

実は「スプートニク1号」打ち上げに使用されたのは史上初のICBMである「SS-6」であった。マーキュリー宇宙船も米国初のICBM「アトラス」によって打ち上げられ、宇宙開発と核軍拡競争は表裏一体で進められていった。

米宇宙政策は非常に重要な国家戦略として位置づけられ、NASAの20会計年度予算は210億ドル、国防総省の宇宙分野予算は141億ドルにもなる。宇宙産業はNASAとの協力、国防総省からの資金で非常に高い技術力を身につけた。

2019年09月15日 尖閣諸島の国有化(2012年9月11日)

2012年9月11日、民主党野田内閣は「尖閣諸島の国有化」を閣議決定した。民間所有の魚釣島、北小島、南小島の3島を20億5000万円で購入(12年度予算の予備費)。これを契機に多数の中国公船の領海侵入が始まった。

10年9月の「中国漁船衝突事件」以降、中国公船が尖閣の領海周辺海域に現れるようになり、当時の石原都知事が寄付金を募って購入する計画を明らかにした。島に港湾施設などを整備して日本の有効支配を明示する狙いがあった。

寄付金は最終的に約15億円集まったが、その最中に尖閣諸島が国有化されたため、宙に浮く形となった。東京都は13年3月に条例を制定して寄付金約14億円(8000万円を事業費として支出)を基金とし、国に託そうとしている。

米政権は、尖閣諸島「有事」の場合は米軍の出動となりうるとしているが、所有権については言及していない。領土問題にはそれだけ慎重になっている。無人の尖閣諸島に、中国との戦争までする価値があるとは思っていないのだ。

2019年08月25日 バルトの道(1989年8月23日)

1989年8月23日、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)で「バルトの道」がつくられた。ソ連からの独立を求めて参加したおよそ200万人が手をつないだ、3つの首都を結ぶ600キロメートルもの人間の鎖である。

この日は、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書の締結からちょうど50年にあたる。ソ連ではゴルバチョフ政権下でペレストロイカ、グラスノスチなどの改革が進められ、抗議行動も許可されるようになっていた。

「バルトの道」は三国の議員会議が計画したといわれる。鎖が途切れないように各都市には担当の場所が割り当てられ、無料バスが運行された。参加者は特別のラジオ放送を聞きながら、現地時間午後7時から15分間手をつないだ。

そして91年のソ連崩壊を前後してリトアニア、エストニア、ラトビアが相次いで独立を宣言。2009年7月30日、「バルトの道-自由の探究によってなされたバルト3国を紡ぐ人の連関」はユネスコの「世界の記憶」に登録された。

2019年07月25日 イラン・イラク戦争の停戦決議(1989年7月20日)

1987年7月20日、国連安全保障理事会が「イラン・イラク戦争」の即時停戦を決議した。80年9月にイラク軍によるイラン侵攻で開始された戦争は、88年8月20日の停戦までに両国で100万人以上が犠牲になったといわれる。

戦争勃発の主要因はイラクのフセイン政権の覇権主義にあったが、82年以降は逆にイランがイラク領土へと侵攻した。両国が石油収入で武器を買いあさり、米ソを中心に世界の53ヶ国が武器を供給したことで戦争が長期化した。

国連安保理での決議後、米国はペルシャ湾で両軍による船舶攻撃からタンカーを防衛する船団護衛を実施した。そしてこれによって恩恵を受けている国々に対して支援を要求。日本に対しても米軍経費の間接負担を求めてきた。

日本政府は87年の特別協定で、在日米軍基地の日本人従業員の8手当の半額負担を開始していたが、翌88年に改訂してを全額負担に。いまトランプ政権下でペルシャ湾護衛の有志連合が動き出し、日本の参加への圧力が強まっている。

2019年07月05日 米国の独立記念日(7月4日)

7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日。1776年のこの日、北米のイギリス領の13植民地が「独立宣言」を発表した。不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた内容は後の思想にも大きな影響を与えた。

その前年、イギリスの大幅な課税に反発した13植民地政府は、政治と立法を担当する「大陸会議」と軍事を担当する「大陸軍」を発足させ、「独立戦争」が始まった。しかしイギリスの優勢な軍事力の前に大陸軍は苦戦を強いられた。

78年にはフランスがアメリカ側に付いて参戦し、スペイン、オランダも続く。81年に米仏軍が東部のヨークタウンでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。83年のパリ条約でイギリスはアメリカ合衆国の独立を承認する。

「独立宣言」は「われらは、相互にわれらの生命、財産及びわれらの神聖な名誉にかけ、神の摂理の保護に強く信頼して、この宣言を擁護することを誓う」と結ばれている。どことなく日本国憲法前文の結びと似ているように思えるが。

2019年06月15日 原子力船「むつ」進水(1969年6月12日)

1969年6月12日、日本初の原子力動力実験船「むつ」が石川島播磨重工業の東京第2工場で進水した。世界で4番目。建造費60億円。70年7月に定係港である青森県むつ市の大湊港に到着。72年9月に核燃料が装荷された。

しかし、地元住民の反対で陸奥湾での出力試験ができず1年10か月が経過。ようやく洋上での原子炉の試運転に了解が得られ、反対漁民の抗議に遭いながらも出港して原子炉を起動する。だが設計ミスによる放射線もれを起こす。

陸奥湾の漁民らは帰港反対を決議し、むつの「漂流」が始まる。そんな中、佐世保市は凍結されていた「佐世保経由の長崎新幹線」の優先着工を見返りに、佐世保港での受け入れを表明し、SSKで遮へい改修工事が行われた。

その後、「むつ」は関根浜を母港とし、メンツだけの実験航海を4回だけ行って廃船に。原子炉は「むつ科学技術館」に展示されている。国鉄はJRに移行し、採算が取れないとして「長崎新幹線」から「佐世保経由」がはずされた。

2019年05月15日 インド初の核実験(1972年5月26日)

1974年5月18日、インドが北西部のタール砂漠の地下で初の核実験を行った。プルトニウム爆弾で威力は長崎原爆の1/3程度の8キロトンといわれている。70年に発効した核不拡散条約の枠外となる7番目の核保有国となった。

インドは米国が提唱した「原子力平和利用」政策の下、カナダから重水研究炉、米国から重水の提供を受け、自国の天然ウランで63年から運転を開始した。再処理して得られるプルトニウムは平和目的に使用するという約束だった。

インドはこの核実験を軍事目的ではなく「平和目的の核爆破装置の実験」と主張。確かに米ソは土木工事目的に核爆発を繰り返した時期もあり、核不拡散条約第5条も加盟国にその権利を認めている。だがインドは未加盟のままだった。

カナダと米国の原子力協力停止にも怯まずインドは核実験を続行する構えだったが国際世論の前に断念した。98年の2回目の核実験までは兵器化も行わなかったが、原子力技術が容易に核兵器に転用されうることを示したといえる。

2019年04月25日 自衛隊初の海外派遣任務(1991年4月26日)

1991年4月26日、海上自衛隊の掃海派遣部隊(6隻で編成)が、ペルシア湾に遺棄された機雷を除去するために出発した。自衛隊にとって初の海外派遣任務となった。佐世保の海自倉島岸壁からは掃海艇「ひこしま」が出航した。

イラクのクウェート侵攻に対し、多国籍軍が派遣され、91年1月にイラクへの空爆が開始された。湾岸戦争である。米国は日本に資金協力や掃海艇の派遣を求めたが海部首相は憲法9条を盾に総額130億ドルの資金提供にとどめた。

しかし湾岸戦争後は「国際貢献」の美名の下、自衛隊法99条(機雷等の除去)を根拠に、通常任務として海外派遣が強行された。その後はPKO、インド洋給油活動、イラクへの陸自派兵等と続く、まさに「蟻の一穴」だったのである。

一方、日本の中東貢献策に不満を抱く米議会は在日米軍駐留経費の全額負担を求める決議を採択した。圧力に屈した日本は米国との特別協定を改定し、米軍基地内の光熱水料を全額負担することに。新協定は91年4月17日に発効した。

2019年03月25日 伊達判決(1959年3月30日)

1959年3月30日、東京地裁で争われていた「砂川裁判」において「伊達判決」が出された。米空軍立川基地の拡張反対闘争の中で基地内に入った7名が刑事特別法違反として起訴されたが、米軍駐留が違憲ゆえに無罪とされた。

当時は日米安保条約改定交渉の大詰め段階であり、判決は日米両政府に大打撃を与えた。このままでは改定案の調印もできないため、検察庁は先例の1件しかない跳躍上告を行い、最高裁は同年12月に伊達判決を破棄差し戻しとした。

ところが米解禁文書からマッカーサー駐日大使が砂川判決の翌日に藤山外務大臣に跳躍上告を要請していたことが明らかとなった。さらに田中最高裁長官が米国側と接触をはかり判決の「落としどころ」や判決の日取りまで伝えていた。

最高裁は安保条約の違憲性の判断を回避して「主権者国民の判断に委ねる」とした。日米両政府の目論みに反し、安保反対運動は60年5〜6月にかけて最高潮を迎える。伊達判決の論理はその後の百里、恵庭、長沼裁判へ継承された。

2018年03月05日 3・1独立運動(1919年3月1日)

いまから100年前の1919年3月1日、朝鮮の京城で日本の植民地支配からの独立をめざす「3・1独立運動」が起きた。3月半ばには運動は朝鮮半島全体に広がり、5月までの間にデモは1,500回以上、延べ200万人以上が参加した。

17年のロシア10月革命で労働者政権の樹立、ドイツ帝国やハプスブルク帝国の崩壊など、民族自決の気運が一挙に高まっていた。朝鮮の宗教指導者たち33名が独立宣言を発表。数千名の民衆がパゴダ公園で「独立万歳」を叫んだ。

独立宣言は「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむる」と始まる。

日本の朝鮮総督府は徹底的な弾圧を加え、死者7,000人、負傷者4万人、逮捕者は5万人近くに及んだ。以降、日本政府は強圧的な「武断政治」は改めるものの、朝鮮の人々の民族性、独自性を奪う同化政策によって支配を強化した。

2019年02月15日 「北方領土の日」(2月7日)

2月7日は「北方領土の日」。1855年のこの日に日魯通好条約が調印されたことにちなみ、日本政府が1981年1月の閣議了解で設定した。この条約で日露両国の国境が択捉島とウルップ島の間に平和裏に定められたからだという。

政府は南千島の国後、択捉と、北海道の一部である歯舞及び色丹を「北方領土」と称している。日本の正当な領土だった全千島も含めた返還は求めず「四島」に限定。ところが安倍政権は実績づくりのためか「二島」に絞りだした。

そもそもの問題は第二次大戦で、領土不拡大の原則に反して、米国が対日戦の犠牲を減らすために、対日参戦の見返りに千島列島をソ連に引き渡す密約を結んだことにある。さらに日本政府は講和条約で千島の放棄を認めてしまった。

この講和条約によって沖縄も切り離され、日本国憲法が及ばない中、米国は銃剣とブルドーザーで多くの基地をつくり現在の状況をうみだした。米国の利益のために日本がいかに戦後処理を誤らせられたか改めて問うことが必要だ。

2019年01月25日 安保条約の調印(1960年1月19日)

1960年1月19日は現行の安保条約が調印された日。旧安保条約は占領下同然に、米国にその軍隊を日本に配備する権利(基地を置いて独占的に使用、兵士を駐留させ軍事演習を行う、部隊が日本を通過する)を与えるものであった。

新安保条約は日米の「対等性」がセールスポイントで、日本における米軍の配置上・装備上の重要な変更、他国への軍事攻撃の際には日本政府と協議する「事前協議精度」が新条約の付属文書(岸・ハーター交換公文)で合意された。

ところが60年1月6日に「討議の記録」なる密約が結ばれており事前協議制度を骨抜きにしていた。それは核兵器の地上配備だけが事前協議の対象であり、他のすべての米軍特権は旧安保条約下と変わらずに維持されるという合意。

2010年3月、民主党政権下の外務省有識者委員会は「討議の記録」の存在は認めたものの、「米国側の一方的解釈」であり密約ではないと否定。だが現実に起きている事態は一連の密約どおり。対等を言うのであれば直ちに廃棄すべき。

2018年