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大村駐屯地 陸上自衛隊:大村市西乾馬場町
土地323,498 m2: 建物47,639 m2


大村駐屯地内で行われる軍事パレード
後ろの建物は第16普通科連隊本部

【前史】
 大村駐屯地のある場所は100年以上もの戦争の歴史を持つ「伝統の地」(駐屯地パンフレット)である。
 日清戦争後、全国的に軍備増強が進められる中、1896年、熊本に旧陸軍歩兵第46連隊が設置され、翌年に大村の放虎原の兵舎に移駐した。1904年には日露戦争のために出兵、1914年には青島攻囲戦に出兵した。その後1932年から敗戦までアジアでの侵略戦争に加担している。
 戦後は1947年に米海兵団第3大隊が移駐。48年には長崎大学学芸学部校舎に転用されていた。

 大村駐屯地部隊は、1950年の警察予備隊創設により、福岡市外雑飼隈で編成され、52年に針尾島に移駐した。その後、長崎大学学芸学部として使用されていた元歩兵第46連隊跡地に第16普通科連隊が開設された。
 63年には第5陸曹教育隊が相浦駐屯地から移駐(74年には再び相浦駐屯地へ移駐)、74年には第4施設大隊が竹松駐屯地から移駐。76年には覆土式の大村基本射撃場が竣工、その後も厚生センター(87年)、体育館(93年)等が完成し、4つの隊舎、1つの宿舎を備えている。即応予備自衛官センターもあり大村自衛隊の中心地となっている。

 部隊は西部方面隊第4師団に属し、第16普通科連隊、第4施設大隊等が駐屯している。隊員数は約1,800名(うち即応自衛官100名)で、大村大野原演習場や、竹松大多武演習場などで演習を行っている。
 1879年に建てられた大村駐屯地史料館には、大村藩、明治・大正・昭和の旧軍史料、特に歩兵第46連隊の戦史資料等約1,500点を展示している。ここも侵略戦争への反省はみじんもみられない。


大村基本射撃場(覆土式:年間150日使用)


射撃待機所


7階建の隊舎サンフレッチェ大村


大村の市街地を占拠しての軍事パレード

 米軍のイラク戦争支援のために長崎県からは第7次群に200人、第8次群に40人、第4次業務支援隊に4名が派兵された。第7次群は第16普通科連隊長が指揮をとり、大村駐屯地からは160人が参加した。

 陸上自衛隊は毎年10月頃、JR大村駅付近の市道約300mを通行止めにして大規模な軍事パレードを行なっている。これは自衛隊創立記念日を前に陸自大村駐屯地・竹松駐屯地、海自大村航空基地、空自福江島分屯基地の4部隊が合同して行なっているものである。上空をヘリコプターが飛び交い、戦車など車両約100台が道路を占拠、1,000人近い自衛隊員が武装してわが物顔に闊歩していくのは異様な光景である。

 西部方面隊は01年からテロに対する即応能力を高めるために、ハワイの米陸軍演習場で市街地戦闘を想定した訓練を実施している。02年8月2日から11日間、第16普通科連隊の125名が派遣されている。米陸軍の支援のもと、陸上自衛隊が実戦的な戦闘能力を身に付け始めている。

 06年11月30日~12月4日には陸上自衛隊による「警護出動」訓練が初めて日米合同で米海軍佐世保基地で行われた。参加した部隊は大村市駐屯地の第16普通科連隊と第4施設大隊の隊員約310名と車両約70台、米軍からは基地警備部などの約300人が参加するというおおがかりな訓練となった。警備上の理由から非公開だった。内容は「主に基地内の3つの貯油所で実施、不審者が侵入したとの想定で監視や警戒の役割分担を確認する」と報道されている。
 佐世保基地での「警護出動」訓練は04年2月にも同じ第16普通科連隊が行っているが、人員は約20人で、米軍の案内で実際に警備する施設の配置や経路の確認を行ったにすぎなかった。
 これまでは米軍基地の警護は警察だけだったが、01年の米中枢同時テロのさいに、いわば「集団狂気」のどさくさの中で自衛隊法を変え、自衛隊の任務の1つとして組み入れられたものである。