Peace Cafe 〜戦争遺構から学ぶ
10月30日、ながさき平和委員会は平和大会プレ企画第1弾という位置づけでピースカフェを開きました。テーマは「戦争遺構から学ぶ」。
最初に筒井涼介さんが長崎県のホームページに掲載されている県内の「戦争遺跡・遺構」を紹介。その数は離島も含めて55か所に上ります。川尻瑠美さんは川棚町の魚雷発射試験場遺構を中心に写真を交えながら解説。冨塚明さんは、潜水服を着て浅瀬で待ち伏せして爆薬の入った棒で船を爆破させる人間機雷「伏龍」の実態を証言ビデオなどを用いて紹介しました。資料として戦争遺構の活用に取り組んでいる川棚町の広報と遺構ガイドマニュアルが配られました。
川棚町に魚雷発射試験場が開設されたのは1918年(大正7)で、佐世保海軍工廠で製造される魚雷の試験のため。42年5月には空襲被害分散を意図して川棚軍事工廠を設置、44年5月には水上特攻艇「震洋」の訓練基地となった。45年6月から「伏龍」の訓練を開始したが実戦前に終戦を迎えることに。
【参加者の感想から】
- 日本の戦争は精神論で進められ、裏付けがまったくない。川棚は日本一の水雷工場と言われたが目標の10分の1しか生産できていない。技術や物資が乏しくても戦争に突入して若者が犠牲となった。
- ダムが造られようとしている石木郷には川棚の疎開工廠もあった。いまも遺構があり、このことにもスポットを当てていきたい。
- 日本の戦争戦略の愚かさが見えてきた。特攻を英雄扱いする風潮もあるなか、このことはガイドの中でも追求していって欲しい。
- 遺構を観光地化する動きが見られる。やはり戦争がなぜ起こったのか、なぜ川棚が選ばれたのかなどを考えてもらうようにならないと遺構が残った意味がなくなる。
- 戦争中は特攻兵を夢見るような教育がなされていた。その中心は天皇中心の教育勅語だった。その流れの中で大人は「伏龍」などという馬鹿げた兵器を考案したのだろう。
- 戦争中は、おかしいこともそう思わせずに邁進してしまった。その点はいまもあまり変わっていないのではないか。科学的なものの見方ができていない。教育はほんとうに重要だ。
- 体験者が亡くなっていく中、映像の形で証言を残していくことは非常に重要になってきた。
- 戦争遺構が残ったのは何がしかの保存の動きがあったから。その物語を掘り起こせば、遺構を生きたものとして語り継ぐことができる。
(2020年11月1日)