4月30日、長崎県地域・自治体研究所の学習会で芝野由和さんが「ワイマール憲法のもとでヒトラーはいかに政権を握ったか」を報告。
1919年のドイツ革命でワイマール共和国が誕生。帝政は打倒されたが将軍たちが残る保守政権で、与党の社会民主党(SPD)と左翼は対立が激しかった。このことが、最後まで強力だったSPDと共産党が、最後まで不仲であり、ナチスへの対抗軸をつくれなかった要因となる。
非常に民主的なワイマール憲法の下、選挙は徹底した比例代表制で6万票ごとに1議席が与えられた。一方、革命直後に制定されたので大統領緊急権を認めたことが後に大きな陥穽となる。通常時は安定のために機能したが、議会の多数派を得られない不安定期には恣意的に使われるようになった。
ドイツの戦争賠償金の支払いは、米国がドイツに資本提供→ドイツが産業復興→利益で英国・フランスに賠償→英国・フランスは米国からの債務を返済という形で行われ、経済は安定期に入る。しかし29年の大恐慌で米国は資本を引き上げたため、ドイツの経済活動が深刻になり、極右や左翼が台頭するようになる。30年の国会議員選挙ではナチ党が12から107議席に大躍進して第2党に。共産党も54から77議席に。SPDは143議席。
さらに32年の1回目の選挙でナチ党は230議席で第1党になる。ヒトラーは首相になる気でいたがヒンデンブルク大統領が拒否。大統領が国会を解散して2回目の選挙になり、ナチ党は196議席に後退。明らかに党勢のピークを過ぎ、「展望は消えうせた」。逆に共産党は89から100議席に増加。この動きを支配層・財界は恐れ、翌年、ヒンデンブルクはヒトラーを首相にしてしまった。連立政権であれば危険なナチスを押さえ、操られると判断をしたのだった。
だがヒトラーは大統領令によって国会解散させ、さらに緊急令で集会・デモの禁止、新聞・出版物の発行停止、政治目的の募金禁止。補助警官度創設で共産党を弾圧。国会議事堂炎上を機に非常事態宣言で基本的人権を停止させた。
それでもナチ党は288議席(43.9%)と半数をとれない。共産党は非合法状態下でも81議席を獲得。議会に共産党やSPD左派は出てこれない状況を作り出し、出席者の3分の2で全権委任法(内閣が立法権・予算もにぎる。憲法違反の法律も可能に)を通してしまう。
その後は労働組合解散。政党新設禁止で一党支配。党内の粛正を行ってナチと国防軍が一体化。ヒンデンブルク死後は法的に大統領職はヒトラー首相に一体化され、独裁体制が完成した。
芝野さんは教訓としていくつか提示しました。
(1)独裁は憲法を必要としない。ナチ憲法がつくられなかったのは緊急令と全権委任法で十分だったから。仮に新憲法を制定すると逆にそれに縛られ足枷となってしまう。
(2)ヒトラーと安倍の手口を同一視しない。ヒトラーは一応は法に則った形で合法的に首相となり全権力を手中にした。憲法違反を繰り返す安倍の手口は「ヒトラーでさえしなかった」。
(3)反ファシズム共闘戦線などよりももっとゆるい共闘をこころがける。ハードルを下げる。なによりも非民主的な選挙制度の廃止が必要。
(4)緊急令は民主的憲法の下でも一旦動き出したら止められない恐ろしいもの。自民改憲草案の「100日」あれば何でもできてしまう。
(2017年5月1日)