1月19日、「第22回自由と民主主義を願う市民のつどい」が開かれ、立命館大学名誉教授の安斎育郎さんが「『原子力村』から見えた自由と民主主義の風景」と題して講演しました。
安斎さんは福島第一原発の事故がなぜ起きてしまったのか、その歴史的背景、とくに自由と民主主義が抑圧されてきたこととの関わりについて、自身の受けたハラスメント体験を交えて縦横無尽に語りました。参加した150人はテンポのいい、ユーモアあふれる講演に聞き入りました。(以下、要旨)
【軽水炉は核軍拡競争の中で誕生】
米国の核独占が崩れ、1950〜60年代は米ソの核軍拡時代となった。原子力発電でソ連に先行された米国は方針転換を図る。原子力法を変えて民間が原子力開発に関われるようにし、原潜用原子炉を急きょ設計変更・大型化して軽水炉を建造した。もともと発電用として安全性を確認しながら開発されたわけではなかった。
【原発には国家と電力資本の一体化が必然】
1957年、米国は大型原発の事故被害を予測し、最悪70億ドルという試算を出した。これは当時の日本の国家予算の2倍に当たる。これでは電力企業の参入は無理と判断した米国は、電力会社の賠償責任の上限を102億ドルとし、それを超える分は国家で補償する「プライス・アンダーソン法」を制定した。つまり原発は国家と電力資本が強く結びつかないと利用できないしろものであった。日本でも61年に原子力損害賠償補償法がつくられ、その後、米国製原発を次々と導入していくことになった。
【米エネルギー政策の下で】
終戦直後、日本の電力は水力が主で電力会社も1つしかなかった。戦後米軍は軍閥解体・経済民主化という名目でこれを9つに地域分割し、日本の電力生産が米国依存になるように画策した。戦後復興の中、地域内では水力だけでは賄えないため、都市部に隣接して火力をつくるようになる。火力の燃料は国産石炭から米国メジャーが提供する石油へ転換された。その延長線上に原子力があり、米2大メーカーによる加圧水型原発と沸騰水型原発に市場が二分された。このように米国の利益を生み出す政策が日本に押し付けられてきたのである。
【原発推進翼賛体制】
日本で原発が推進された要因は(1)米国の対日エネルギー政策、(2)それを忠実に受け入れた日本政府、(3)それとタッグを組んだ電力資本、(4)安全と確認する官僚機構、(5)安全と主張する御用学者、(6)安全神話を広めるマスメディア、(7)交付金に釣られて誘致に動く地方自治体、(8)推進派に組織された地域住民の8つ。
この中で「原発推進翼賛体制」という「原子力ムラ」が築かれ、その一方で原発批判者を徹底的に差別・抑圧、そして懐柔していった。
【現世代の責任として】
今回の事故が放射能リスク問題だけに矮小化されてはいけない。次世代以降に、より安全な環境を残し、より安全なエネルギー政策を選び取っていくために、なぜこんな事態がもたらされたのかについて認識を深め行動していくことが求められている。それが電力を享受してきた現世代の共同責任である。
(2012年1月20日)