“事実を”を通して伝わる戦争の姿
10月2日、ながさき平和委員会の10月例会が行なわれました。今回は会員の戦争体験・被爆体験を聞こうという企画の第1回目でお話は齊藤武男さん。 兄や同級生の手紙、当時の写真、自ら収集した地域の惨状に関する資料を使って体験を語っていただきました。特に資料に現れる人物のいた場所を地図に示しながら、「この場所で」と話されるのはひじょうにリアルで当時の様子が浮かんできました。 齊藤さんは日中戦争が本格的になった1937年(昭和12年)の生まれ。現在の城栄町で生活し、城山国民学校に通っていました。終戦の年、家の前に防空壕がつくられたために強制疎開させられ、父の故郷の宮崎県庄内町へ移りました。被爆は免れましたが学徒動員で残った中学3年の兄と6人の親類を亡くしました。 疎開先へ届いた、仲の良かった同級生や兄の最期の手紙から戦時下の様子をうかがい知ることができます。遺言のようにも思える兄の手紙には「若し死ぬとしたら醜くは死な無い積もりで居ります」と記されていました。齊藤さんは兄がこのような表現をした背景には当時、全国で展開された国民精神総動員運動があることを、兄の通知表に記載された天皇制に関連する学校行事を説明しながら指摘しました。 齊藤さんは「少年少女平和のつどい」の語り部として子どもたちを連れて城山小学校へ行った時に、亡くなった同級生の手紙を資料館で見つけ、約60年ぶりに再開したような気がしたそうです。それで少し頑張らなければといろいろ当時のことを調べ出しました。そして家の前につくられた防空壕にも「たくさんのすごいドラマ」があったことを知り、壕の説明板さえないことを残念がっていました。 参加者からも「空襲は一番寝静まっている午前2時頃が多かった」「小学校の防空壕には全員入れず、役に立つ高学年が優先された」など当時の状況がリアルに語られました。 |
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