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佐世保弾薬補給所 FAC5033 佐世保市前畑町
土地582,098m2:建物15,921m2


天神から見た弾薬庫

 前畑弾薬庫は明治年間の1888年に2棟の火薬庫が作られた。昭和の初めに弾薬庫としての機能が整備され、戦前は旧日本海軍が使用していた。1945年に米陸軍が接収、55年に米陸軍から米海軍へ移管され現在に至っている。


前畑弾薬庫のゲート

 現在の名称は米海軍佐世保弾薬補給所といい、弾薬庫が34棟あり、トンネル形式が12棟とポゴタ形式(レンガ小屋組木造)が22棟である。
 それぞれの弾薬庫は貯蔵される弾薬の種類によって危険度1~4までの標識が掲げられており、最も危険度の高い標識1(大爆発の危険性)の弾薬庫は少なくとも11棟が確認されている。


トンネル式弾薬庫 危険度No. 1

 91年の湾岸戦争の時には、この弾薬庫から輸送船への運び出し、また陸上からの運び入れなど昼夜を分かたぬ補給・輸送作業が展開された。また99年から毎年のように行われる大分県日出生台演習場での米海兵隊実弾砲撃演習の際には、155ミリ榴弾砲の砲弾などが白昼、市民には事前通告なしに前畑弾薬庫・針尾島弾薬集積場から陸路で運ばれた。

 前畑弾薬庫は米軍が随時、旧日本海軍の弾薬保管施設を改修・近代化してきた。その一方、弾薬庫後背地は佐世保市中心部の東南の丘陵地帯であったため、周辺は新興住宅地域として開発が進んだ。学校、保育所など公共施設も整備されてきたために現在では弾薬庫の配置が周辺の環境にそぐわなくなり、一番近い民家との距離はわずか70mしかない危険な状況になった。その結果、米軍にとっては貯蔵量に制約が課されることになった。


弾薬庫とバージ船

 95年に阪神・淡路大震災がおき、自然災害によって弾薬庫爆発などが誘発される恐れがあること、沖縄の少女暴行事件を契機に沖縄県民が立ち上がったのをうけ、住民の弾薬庫移転の運動が始まった。市議会は全会一致で「撤去返還」請願を採択したが、市長側の巻き返しがあって今度は「(市外への)移転返還」を決議させた。

 ところが98年になって久間防衛庁長官(当時)が米軍針尾島弾薬集積所への「移転・集約」を私案として提示した。市長も「針尾移転を含む市内移転反対」をひるがえして針尾への移転集約を表明した。これを契機に国は99 年から調査費等の予算措置をとり、05年から日米間の正式協議が始まった。

 現在、「移転施設の建設と併せて家族住宅の不足が解消されることが確認できた場合に、前畑弾薬庫の返還を実現させる」という合意がなされている。

 そんな中で、06年10月21日、前畑弾薬庫で弾薬の運搬や貯蔵に使う木製の台を保管する木工作業所が全焼するという、あってはならない事故が起きた。弾薬庫そのものへの延焼はなかったが、鎮火まで長時間を要し、周辺住民を不安に陥れた。作業所から最も近い弾薬庫までの距離は約60mで、現場近くには、航空機用の爆弾を加工する作業場もあったことが報道されており、延焼すれば大惨事につながりかねない火災だった。

 今回の火災で大きな問題となったのは、(1)基地側から自治体への連絡がなかったこと、(2)協定に基づく市消防局からの再三再四、計7回にわたる応援出動の申し入れを基地側が拒否したこと、(3)それでも消火作業に4時間以上もかかったことである。佐世保基地司令官は「弾薬庫や周辺住民への被害の影響はなかった」「現場周辺が狭く、進入できる消防車両の台数が限られる」と市消防局の応援を断った理由を述べた。今回の火災事故は、街のど真ん中に危険な弾薬庫を抱えながらも佐世保市民の安全確保に対する米軍の意識の薄さを浮き彫りにしたといえる。