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針尾住宅地区 FAC5119 佐世保市江上町・指方町
土地354,078m2:建物110,490m2


針尾住宅地区の全景

 米艦船の佐世保母港化が始まる中、米海軍は家族住宅の確保を迫られた。そのため米海軍は、一度は返還した崎辺地区の再提供を求めたが、1985年に長崎県が所有していた針尾工業団地の一部(21万4849m2)を、住宅関連支援施設として取得した。

 1993年度末までに「思いやり予算」で488戸の家族住宅が建設された。内訳は9階建て高層住宅4棟(272戸)、2階建て低層住宅35棟(216戸)。間取りは平均40坪もあり豪華マンションなみで、費用は1戸あたり4200万円。同じ10年間に県が市内に建設した公営住宅は400戸に満たず、最新のものでも21坪の広さしかない。

 また92年に厚生施設用地として2万3231m2の土地が追加提供され、基地内には教会、売店、理髪店、診療所、学校、保育園など日常社会生活に必要な施設が整った。

 住宅での光熱水料も「思いやり予算」でまかなわれ、針尾住宅地区の使用実績を単純に平均すると1戸当たり月額3万2千円に相当する。諸施設での使用を考慮したとしても日本人の平均家庭に比べてかなり高額となっている。15年9月、環境負荷低減策として低層住宅の一部に太陽光パネル等が設置された。


針尾住宅地区の東ゲート

 米軍は基地内をアメリカの国内基準で整備し、「ゆとり」をもたせている。そのため機能強化に伴って増加する人員を受け入れる住宅は基地内にはつくれない。日本政府は針尾住宅地区周辺の土地を次々と米軍に追加提供(99年: 2万6353m2、03年:2万9357m2 、06年:2万3180m2 )し、当初面積の1・5倍に拡張した。これらの計画も1990年策定のマスタープランと基本的に同じものである。その後も隣接するハウステンボスの駐車場地が接収されるなど、当初の1・64にまで拡張された。


07年に完成した6階建て中層住宅。33億円という報道がある。

 07年3月、新たに6階建て中層住宅1棟(44戸)が完成し、針尾地区の家族住宅は532戸となった。しかしそれでも約半数の家族は基地の外に居住しており、約400戸が不足しているという。米軍は、前畑弾薬庫の返還の条件のひとつに住宅不足解消を掲げ、「思いやり予算」による建設をもくろんでいる。すでに低層・中層・高層のまざった針尾地区の完成予想図ができあがっており、周囲には運動場や他の施設まで整備されるという(星条旗新聞)。


釜墓地

 佐世保市針尾北町の浦頭港は、海外からの日本人の引き揚げ港に指定され、約130万人を迎え入れた。あわせて307柱の遺骨と4,515柱の遺体が引き揚げられた場所でもある。

 浦頭引揚記念資料館には、当時の着衣、日記、紙幣、通帳、リュックサック、引揚証明書、収容所での詩集、軍人手帳、消毒器具などが展示されている。

 米軍針尾住宅の東ゲートの脇にある釜墓地は、引揚者の遺骨・遺体を荼毘に付し、その霊が弔われているところである。その他に、命からがら引揚船に乗り込んだものの、その途中で亡くなったり、浦頭までは到着したものの、ふるさとに向かう途中栄養失調や病気で亡くなった約2,000人の引揚者もここで荼毘に付された。

 釜墓地護持会の人たちの調査によると、荼毘に付された遺骨・遺体の一部が遺族のもとに返されていないことが明らかになっている。

 戦争犠牲者が完全に戦後処理されないままになっている一方で、「思いやり予算」を湯水のように投入して出来上がっている米軍住宅のこの対比は、戦後日本政治の侵略戦争無反省とアメリカ言いなり政治の矛盾を象徴するところになっている。