月夜の王国3 驟雨と霊廟
1
初夏特有の鋭い陽光と、暖かい季節にだけ留まる渡り鳥の鳴く声に気付いたランは、ゆるゆると瞼を上げた。
寝転がったまま朝日に照らされている天井を見つめ、しばらくぼうっとしていたが、今日が休日であると思い出しおもむろに起き上がった。
眠りから覚めたばかりのぼんやりした視界が定まっていくに従って見える景色は、無骨な石壁と簡素な調度品。それから飾りの無い一人用の木製寝台。緊急事態に備えて置かれた愛用の剣に、防具一式もあった。昨夜、眠りにつく前に整えた自室は、何一つ動かされる事無く、そのままの状態を保っている。
当たり前の休日の、当たり前の朝。しかしランには久しく訪れていなかった時間。
ランは両手で軽く目を擦ると、もう一度全体を見回して、珍しい事もあるものだと思った。
シュウと関わるようになってからというもの、ランは休日らしい休日を過ごした事が無い。対外的にはうつけだが、実のところ隙の無いシュウは、ランの勤務のシフトから休日までを全て把握していて、休日前夜になるとあの手この手で彼の部屋へ攫われるのが常になっていた。
ランも最初の方こそ抗ったり逃げようとしたりしていたものの、魔法を使う国家元首に敵うわけが無い。半年も過ぎた今となっては、諦めの心境も手伝い、すっかり慣れてしまっていた。
……なのに。昨日に限ってシュウは来なかった。ランにしては珍しく夜更かしなどをしてみても、彼は一向に現れない。朝起きたら国王の私室だった、という事になりそうだと思いながら眠ったが、至って普通に自室で目覚め、シュウが訪れたような気配も無かった。
(何か、あったのだろうか)
自分から積極的にシュウとの逢瀬を望んでいる訳ではない……と、思う。が、いつもの事が無くなるというのは気味が悪いものだ。
ランはざっと身なりを整えると、自室の北側に面した廊下に出る。ガラス戸など嵌められていない、ただ四角く壁を抜いただけの窓から、奥に建つ王宮の最上階を見つめた。
同じ王城の中とはいえ、別棟の様子が判るはずも無い。ランは短く溜息をつくと、食堂へと足を向けた。もちろん朝食を摂るためだが、もし王宮で何かあれば、噂か命令がもたらされるだろうとも思っていた。
特にする事も無い、のどかな休日。暇を持て余したランは、自室の窓辺にパンくずを撒いて、寄って来た渡り鳥がついばむのをぼんやりと眺めていた。
例えば、この先何十年も時を経て、職も責務も家も全て次代に渡した後の生活は、こんな感じなのかも知れないと思う。ゆったりとした落ち着いた時間を心地良いと感じる反面、何かを成さねばならないような漠然とした焦燥感が心の隅にあった。しかし、何をすれば良いのかが判らない。
朝、食堂で会った仲間に色々と尋ねてみたものの、これといって変わった話は聞けなかった。命令どころか噂すら立っていない。緘口令を敷くような大事なのかとも思ったが、役職の付いている上官が普通に食事をしているのを見れば、そうでも無さそうだった。
ふいに、悩む自分が馬鹿馬鹿しくなる。
彼に何かあったのかと考えるよりも、単純に自分に飽きてきたのだと思う方が自然だ。仕えている主に抱いてはいけない感想だが、王城の中だけで育てられたシュウは年齢の割に我儘でちょっと子供っぽい。彼の奔放すぎる性格に、時々、母親のような目線になる事すら、ある。目新しい玩具に手を伸ばすように、男装の近衛騎士などという物珍しい女に夢中になったものの、半年で飽きたとしても全く不思議は無かった。
今日何度目かの溜息をついて、ランは手に残っていたパンくずを全て外に放る。窓辺にいた鳥たちは礼を言うように高く一鳴きし、落ちていく餌を目掛けて飛び立った。あっという間に小さくなっていく後姿。黒くしなやかな渡り鳥に、見慣れてしまった男の姿を重ねたランは、また溜息をついた。
男女の仲というのは、こうして疎遠になっていくのかも知れない。なさぬ仲になってすぐ婚約の約束をし、指輪を贈られたが、それだけだ。対外的には何も始まっていない。そもそも立場が違いすぎる自分と彼では、上手くいかないだろうという事も、うっすらだがとうに気付いていた。
ランは手に付いていた粉を窓の外に向けて払うと、傍らに置いた椅子に座る。風通しを考えて窓を開け放してはいるものの、今日は風が無いらしい。
風の音も、鳥たちの声もしない室内で、ランは一人、自分の心を掴みかねていた。
ただ一度シュウが来ないというだけで、なぜこんなに動揺するのか。いつか離れていくかも知れないと判っていたのに、なぜ落ち込んでいるのか。
(……わからない。わからないが、寂しい)
背もたれに身を預けたランは、そっと目を閉じた。昨夜の夜更かしのせいで少しだるい。
程なく眠りに落ちたランは、無風のはずの室内に髪を揺らすほど強い風が吹いた事には気付かなかった。
「ラン、昼寝も良いけど、寝過ぎじゃない? いい加減起きないと……襲うよ?」
耳たぶを舐められた感触と共に聞こえた声に、慌てて飛び起きる。すっかり寝入っていたせいで、椅子に座っている事を失念していたランは、バランスを崩してずり落ちそうになった。
ふふっと微かに笑うような声に合わせて、後ろから伸びる腕。細い割に力強いそれに支えられ椅子に戻されたランは、振り返った視線の先に、いつもの彼の姿を認めて目を見張った。
「どうして……」
寝起きではっきりしない思考のままに見つめると、きょとんとしたシュウが首を捻る。
「何が、どうして?」
「えっ。あ……いえ、何でも、ありません……」
ハッとしたランはとっさに言葉を飲み込み謝罪した。訳が判らないらしいシュウを尻目に、ぎゅっと拳を握る。
(……今、自分は何と言おうとした? どうして、ここにいるのか聞くつもりだった? いや……違う、あれは……昨夜のうちに逢いに来てくれなかった事を詰る言葉が、口をついて出そうになったのでは無かったか……)
無意識の事とはいえ、何故そんな思いが芽生えるのかが判らない。だが、臣下として君主に向けていい感情で無いと、ランは自分を恥じた。
「ラン、どうしたの。気分でも悪い?」
様子のおかしい事に気付いたシュウに、ランは顔を上げ、なんでも無いと首を振って見せる。騎士としてではなく一個人として彼に気遣われる事に、少しだけ苦痛を覚えた。
「大丈夫です。それより、何故ここに?」
「何でって、ラン、今日明日休みだろ。だから逢いに来た」
訪れるタイミングが違う事を除けば、全くいつも通りの展開。しかし普段と変わらない態度だからこそ、昨夜来なかったのが尚更、不自然に思えた。だがランはそんな事を訊ねられるような立場に無い。気になりつつも、相槌を打つに留めた。
「……そうですか」
「何か変だなぁ。予定でも入れちゃった?」
「いいえ」
きっぱりと言い切る。
この半年間ことごとく休日を潰されてきたランは、いくら昨夜シュウが来なかったとはいえ、すぐ別の予定を入れるほど思慮が浅くは無い。もし何かしらの予定を組んだとして、今のようにシュウがふらりと現れれば、台無しにされるのは目に見えているからだ。先約があるからといって、身を引くような人でない事は判りきっていた。
「ふぅん。何でも無いならいいけど」
納得しきれていないようだが詮索を諦めたらしいシュウは、後ろから緩くランを抱き締めたまま、指先で寝台の方を示した。
見れば、寝台の上に藤を編みこんで作ったバスケットが一つ載せてある。
「あれは、何ですか?」
「ん。見て判んない? お弁当だよ」
「はぁ……」
自分でも間抜けだと判るくらい、気の抜けた声が出た。若い娘が好みそうな見るからに可愛らしいバスケットは、確かにランチボックスに最適だろうが、何故それがここにあるのかが疑問だ。
首を回してシュウの顔を覗きこむと、子供のようにキラキラ光る瞳とかち合った。
……嫌な予感。
背筋に冷や汗をかいたランの予想に違わず、シュウは至極楽しそうに
「ピクニックに行こう!」
と、のたまった。
ファイゴスの王城は、手前の城下町から登る形になっている丘の上に建設されていた。城門をくぐると、まず城壁と一体になった騎士隊員寮兼詰め所があり、中庭、その奥に王宮がある。王宮の低層階は大広間や謁見の間、王宮内で働く者たちの詰め所などで、中層は政事を司る執務室と事務方の部屋。上層は国王一家の私室となっていた。と言っても、現在王宮に住まうのは現国王のシュウのみで、ベネートリウス王子と前王妃は王宮の更に奥にあるという別棟で暮らしているらしい。
らしいというのは、ランも実際に見た事が無いからだった。近衛騎士はあくまで現国王を守る為に存在している部隊であり、王宮とその前門が守備範囲だ。王宮の奥、通称で奥の宮と呼ばれる棟は更に高位の騎士が警備に当たっていると聞かされていた。
丘の最奥が崖になっているので、前門を警戒する事は結果的に王城の全てを守っている事になるのだが、近衛騎士であるランは、王宮よりも奥がどうなっているのかは、知らないし、知る必要が無かった。
初めて誘われた王宮の裏手で、ランはぐるりと辺りを見回した。
城下や城内から見た時には判らなかったが、予想外に広い。手入れされているらしい芝の敷かれた広い敷地と、森と形容しても良いくらいの木々が生い茂る、突き当たりの林が見えた。
王宮から少し離れた位置にこぢんまりした素朴な庭と、広めの邸宅が建っている。素材一つ一つは高価なのだろうが、造りとしてはデュトイ家の屋敷とそう変わらないのを見て、ランは正直、意外だと思った。王城というのは、警備上、堅固な石造りでないといけないのかと思っていたのに、目の前の邸宅はこのまま城下にあってもおかしくない風情だ。
ランが奥の宮に驚くのを見て、シュウは淡く苦笑する。
「……あれは、元々、俺の母親の為に建てられたんだよ」
「御生母様の?」
シュウが妾腹の王子である事は国民も知る事実だが、母親については何故か多く語られていない。
前々王、つまりシュウの父が王妃亡き後、メイドを無理矢理召し上げたとか。臣下の妻に手を出して表立った事はできなかったとか。俗な噂ばかりが流れていた。
「俺の母親は、表向き貴族出身って事になってるけど、実際は辺境の村娘だからね。王宮住まいは苦痛だったらしい」
意外なシュウの母の素性に、ランは彼を振り返る。
「では、庶民階級の出であられたのですか?」
貴族出身のせいで大っぴらには言えないが、ランは正直なところ階級制度など、どうでもいいと思っていた。家族と職務に対しては誇りを持っているが、爵位に関しては「近衛騎士でいる為に必要なもの」くらいの意識だ。
だが一般的にはそうでは無い。実力よりも身分を重要視される事も珍しくない世の中で、庶民の出の女性が国王の愛妾になる事は、奇跡に近いだろうと思った。
「秋の終わりにさー、精霊祭りっていうのあるでしょ。あれに招待された父親が、儀式に出てた母親を見初めちゃったらしいよ」
「それはまた……」
「情熱的でしょ?」
息子としては両親の恋愛譚などさして面白くもないのか、シュウは茶化して肩を竦める。
晩秋の頃、国王の御前で行われる、年に一度の大祭。最初に人と心を通わせたとされる精霊が住んでいた土地で行われる祭りは、派手さは無いものの厳かで、今も精霊族の血を引く子孫たちの手により連綿と続けられていた。
「……つまり、陛下の御生母様は、精霊族の血縁でいらした……」
そう考えれば、シュウが魔法を使える事も納得できる。精霊族の末裔は、その出自ゆえに魔術の潜在能力を持つ事が多かった。
「お、ラン鋭い。精霊族の子孫って、銀髪の美人が多いからね。父親はそこに惚れたらしい」
ランの質問を、見た目だけの事と受け取ったシュウは快活に笑う。
庶民の娘を傍に置くほど愛した父に、ただ一人の王妃だけを愛し抜いた兄、それから男装の近衛騎士というやっかいな女を好きだという目の前の人。ファイゴス王家の男性は、王としては異質なほど情熱家であるらしい。
異性にそこまで強い感情を持った事の無いランは判ったような、判らないような気持ちで頷いた。
促され、敷地の中央に敷かれた石畳を歩きながら、横目で奥の宮を見つめる。王宮のような整った美しさは無いが、素朴で暖かい雰囲気を感じた。
「陛下もあちらでお暮らしになられた事があるのですか?」
「あるよ……と言っても、母親も早くに亡くなったから、ほとんど俺一人で暮らしてたようなもんだけどね。今はベネートと、兄王妃様が住んでる。王宮よりは住み心地良いから、そのまま使って貰ってるってわけ」
母を早くに亡くしたという言葉に、胸が震える。ランもまた、幼い時分に母を失っていた。
近衛騎士として城に上がっていた父に代わり、家を支えていた女主人を失った混乱の中、寂しくても寂しいと言えず、納屋に隠れて泣いた記憶が鮮明に浮かび上がった。
ふいに歩みを止めてしまったランを、シュウが振り返る。
「……どうしたの?」
今、凄く彼を抱き締めたいと思った。理由は自分でも判らない。ただ、そうする事で、シュウの中にあるであろう痛みをいくらか理解できそうな気がした。
しかしそれは許されない。シュウは良いと言うだろうが、臣下としての自分がそれを是とはしなかった。
ランは自分を戒めるように口を引き結び、ゆっくりと首を振る。
「申し訳ありません。参りましょう」
怪訝そうなシュウの視線をかわす為に、無表情を装う。自分と彼は、騎士と国王なのだと強く心に刻んだ。
相変わらずどこへ行くにも部屋着のままのシュウと、中に簡素な皮鎧を着けマントを羽織っただけのランが、ただ草を薙いだだけの、森の小道を登っていく。
シュウの右手には先ほど自室で見た可愛らしいバスケット。臣下である自分が持つべきだと進言したランの言葉は「デートで女の子の荷物を持たないような気の利かない男にはなりたくない」という、よく判らない理由で却下された。
薄曇りではあるが、日差しが強くない分、心地いい。ランはシュウの後ろを歩きながら、真上を見上げた。
暖かい季節を謳歌するように伸ばされた木々の枝葉が、トンネルのように空を覆っている。眩しく輝く緑と、その間を駆けていくリスや小鳥たち。吹き抜ける風が起こしたざわめきに、ランは深く息を吸い込んだ。
「気持ちいい?」
いつの間にか振り向いていたシュウが、優しく笑う。
不覚にも、その笑顔に心打たれたランは、恥ずかしさから口をつぐみ俯いた。
「……ここは、王城の中でも一番、大気が安定しているからね」
「え?」
(大気が、安定……?)
「まぁ……判りやすく言うと、自然がいっぱいって事」
正直、何の話かさっぱり判らなかったが、突き詰めて聞くのは失礼だろうし、聞いたところで理解できそうも無かったので、ランは素直に頷いた。
シュウは時々こうして、ランの理解を超える事を言う。最初は単なる妄想癖だろうかと思っていたが、どうやら確かな根拠に基づいて言っているらしい。宮廷魔術師と懇意にしている同僚などに言わせると、彼らはただ人には見えざるものを見るそうだから、シュウの言動も似たようなものなのかも知れなかった。
「ねぇ、ラン。手を繋いでいこうか?」
「は……手でございますか?」
突然の提案に、ランはきょとんとする。辺りをぐるりと確認したが、起伏も無い緩やかな上り坂が続くばかりで、手を繋ぐほど道が荒れているようには見えない。
ランが不思議そうに見上げると、シュウは肩を竦めて苦笑した。
「城下では、恋仲の二人が連れ立って歩くときに手を繋ぐそうだよ。知らない?」
「こっ……!」
思わず、ぶんぶんと首を振る。時が経ち、関係が深くなっても、面と向かって愛だの恋だのを囁かれるのは、恥ずかしくて苦手だった。
微笑みを治めたシュウの表情に、すっと暗い影が差す。滅多に見る事のできない不安げな顔に、ランはハッとして目線を上げた。
自分よりも大きくて年嵩のシュウが、何故か急に幼く見える。ふと去来する既視感。こんな風にどこか張り詰めた雰囲気を纏った彼と対峙した事があるような気がして、ランは瞳を瞬いた。
ついさっき感じた彼を抱きしめたいと思う気持ちが一層強くなる。ランは無礼を承知の上で、彼の空いている左手に、自分の右手を重ねた。
触れ合う温もりと、銀色に輝く互いの約束の証。
ランから手を繋ぐとは思っていなかったらしいシュウが、息を呑んだのが判った。
「わ、私ごときの手で、陛下のお役に立てるなら、お使い下さい」
あくまで家臣として差し出すのだと告げる。自分でも、空々しい言い訳だというのは判っていた。
シュウはそれでも良かったのか、ぎゅっと強くランの手を握り返し、嬉しそうにふんわりと笑う。
「ありがとう」
先ほどの影は成りを潜め、落ち着いた様子のシュウと、作りの悪い甲冑を着込んだような、ぎこちない動きのラン。狭い緑道を寄り添って歩く二人の目の前には、森が切れた事を現す眩しい光が見えていた。
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