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 月夜の王国2  足に紋様 右手に指輪

  前編

 王国近衛騎士として忠誠を誓ったはずの国王陛下と、のっぴきならない事になってしまってから早1月。ランはやっとの思いで、休日に自分の屋敷へと帰ってきていた。
 いきなり襲い掛かられ、突然の告白。その後2日も軟禁されて、気付くと休みごとにシュウの私室に呼び出されている有様。
 今日の休みだって、渋るシュウに頼んで頼んでやっともぎ取ったものだった。
 デュトイ家の屋敷は城下町の外れの閑静な場所にある。
 伯爵家ではあるが代々近衛騎士を勤めてきた先祖たちは、装飾を派手にすることに興味が無かったらしく、実に地味で実用的な邸宅であった。
 ランはデュトイ家の長子であり現当主であるから、月に一度は邸宅に帰り色々な手続きなどをしなければならない。近衛騎士の仕事が忙しいので、ほとんどを妹たちに任せてはいるが、当主が確認しなければならない事項も少なくないのだ。
 ふっと溜息をついて、今しがた確認した書類にサインを入れると、傍らで補佐してくれている上の妹、ファニーがくすくすと笑った。
「姉さま、よほどお疲れなのね。溜息がもう17回目ですわ。何か飲む物を持って参りましょう」
「……そう、か。すまないなファニー」
 城にいるときと同じように男性口調で返すと、ファニーは「いいえ」と呟いて部屋を出て行く。
 もう一度、溜息をついて首をぐるぐると回した。休みごとにシュウに呼び出されるものだから嫌でも疲労が溜まっている。
 ランは自分の顔をぱちんと叩くと、今しがた部屋を後にしたファニーの姿を思い浮かべた。
 ランと同じ金髪碧眼ながら大きく波打ったふわふわの髪と、母親譲りの優しい顔立ちの妹は、自分の癒しでもあり自慢でもあった。
 23歳の女であるのに、立場上、父親のような目線になる自分に苦笑する。
 成人したばかりのファニーと、まだ成人していない末の妹リーリの為にランはこの家を守っていかなければならない。もちろん貴族としての名誉もあるが、ランが頑張れるのは妹たちがいるからだ。だからこそ、どんなことがあってもランは近衛騎士を続ける。たとえシュウとあんなことになっても。
 一瞬、逢瀬が頭をよぎり、ランはぶるぶると首を振った。すっかりシュウと会う事に慣らされた身体が恨めしい。
 ランは気合いを入れなおすとまた書類の確認作業へと戻った。

 ……2時間ほど事務仕事をこなすと、今月の決済やら何やらは全て片がついた。
 ランはイスに座ったまま大きく伸びをし、ファニーへと微笑みかける。
「ありがとうファニー。おかげで早く終わった」
「いいえ、姉さまのお役に立てれば幸いですわ。お城でのお役目もございますのに、大変でしたでしょう」
 柔らかく笑ってから手際良く後片付けを進める妹を、ランは静かに眺めた。
 今年18歳になるファニーは、社交界でも指折りの美人だ。貴族のたしなみとして成人と同時に社交界にも連れ出したが、2度パーティへ行っただけで求婚の申し出が何通か来たほど。
 ファニー本人もまだそんな気は無いし相手がやや難だったので断ったものの、そう遠くない未来、彼女は夫となる人を見つけ、どこかへ嫁ぐのだろう。もし逆に婿を迎えても、今と同じ生活はできなくなる……どこか寂しい心持ちをランは抱いていた。
 しかしファニーにも、この家にも、それは願ってもない事なのだ。
 女の身で騎士を務めるランは今後誰かと添い遂げる事はできないだろう。となればファニーかリーリが嫁ぎ、子を生して、その子がデュトイ家を継ぐようにしなければ家が断絶してしまう。父や先祖の手前、それだけは避けなければならなかった。
 ファニーに気付かれないように、そっと溜息をついてからランは口を開いた。
「リーリは?」
 今更だが、帰宅してからずっと下の妹を見かけていない。
 するとファニーは何でも無い事のように
「王立研究院ですわ。夜には帰るそうです」
 と答えた。
 元々、自我が強く社交的でないリーリは、いつの頃からか医術に興味を示し、国の医学薬学研究機関である王立研究院に出入りするようになっていた。
 16歳の少女という事で門前払いをされそうになった所を、熱意と才能にほだされた一人の主任研究員の目に留まり、彼の臨時助手として採用されたのだ。
 とはいえ、成人していない貴族の娘としては余り良い立場とは言えない。
 やりたい事を妨害するつもりは無いが、成人してからにしろと再三言ったものの、リーリの研究欲には歯止めが利かなかったようだ。
「まったく、リーリにも困ったものだ」
「あら、別に構わないでしょう。どんな噂がたったところで問題ありませんわ。リーリは一生医学の研究をしていくそうですから」
 暗に、貴族の娘として結婚するつもりが無いのだから、好きにさせたら良いと言われ、ランは閉口した。
 頼みの妹たちの片方に、次代を期待できないと知って暗澹たる気持ちになる。
 もしファニーの夫君がどこぞの跡継ぎで、男児が一人しか産まれなかったら? いや、それ以前に子供ができなかったら?
 将来はどうなるのか、考えるだけで落ち込みそうだ。
 近い親戚筋に養子になってくれそうな男児がいないか調べておいた方がいいかも知れないと考え始めた時、唐突にドアがノックされた。
 ファニーが返事をして近づくと、顔を覗かせたメイドが何かを耳打ちする。
 一瞬、不思議そうな顔をしたファニーは机に座ったランを見て言った。
「姉さまにお客様だそうですわ」
「客? ……誰だろう。今時期に屋敷に来る知人はいないはずだが」
 年始や季節の挨拶の時期なら親戚が尋ねてくる事も有り得るが、それ以外の時期に屋敷を訪ねることは、まず無い。貴族の姻戚関係など形だけで希薄なのだ。
 それに懇意にしている者たちは、ランが近衛騎士として城に上がっていることを知っている。だからわざわざ屋敷を訪れるとは考えにくい。
「ご同僚の方のようですけれど……」
 ますます判らない。
 非番の者を呼び出すような大事があれば、国王の勅使が来るはずだ。
 ランは首を捻りながら、とりあえず応接室に通すように手配した。

 ざっと身なりを整えて応接室へと向かったランは、ドアを開けて硬直した。
 ソファに座っていたのは、真っ青な顔をしてピクリとも動かないタティルと、逆に笑顔でくつろぐシュウだった。
 2人とも近衛騎士の鎧を身に着け、シュウは普段無造作にしている髪を全て後ろに撫で付けて縛っている。
「へっ、へい……っ!!」
「しっ! 俺の素性は内緒、ね?」
 口の前に人指し指を立てて、シュウは面白そうにウィンクした。
 ランは後ろ手に慌ててドアを閉めると、傍らで人形のように固まっている本物の同僚に視線を向ける。
「タ、タティル、これはどういう……?!」
「……」
 ランの声が聞こえているのか、いないのか、タティルは人形のように表情一つ変えずに床を見ていた。瞳孔が開いているかも知れない。
 答えないタティルに代わってシュウが口を開いた。
「あー、モランジ伯は悪くないよ。俺が無理言って連れて来させたの」
 モランジ伯というのはタティルの事だ。モランジ伯爵家の出身だからそう呼ばれる。
「な、なぜ。どうして、このような危険な事をなさるんですか!」
 国王が自ら市井を歩き回るなど言語道断だ。ファイゴスが中立国であっても、その首を狙う者がいないとは限らない。
「別に危険じゃないでしょ。俺そんな治安悪い国にした覚え無いし。一応モランジ伯に護衛もお願いしたし」
 どうだと言わんばかりにシュウがタティルの肩をばんばんと叩くと、タティルは顔を引きつらせて「ヒッ!」と息を呑んだ。
「そういう問題では御座いません!」
 混乱と動転から自分の立場も忘れてそう叫ぶと、シュウはふいに横を向いてごく小さな声で
「……ランに逢いたいと思ってさ」
 と呟いた。
 言葉の意味を理解した瞬間、ランの頭に血が上った。
「そのような下らぬ理由で、こんな暴挙に出たのでございますか?!」
「ラン!」
 シュウの声色が急に低くなったので、ランは押し黙り頭を垂れた。閉じた瞳から涙がこぼれそうになる。
 呆れよりも、悔しさで。
 シュウは命を懸けて自分を守る騎士たちを何だと思っているのか。
「……申し訳ありません。口が過ぎました」
 ランが震える唇で言葉を紡ぐと、シュウは溜息をついてランに近づいた。
「いや……ランの言う通り、浅はかな事をしたかもしれない。だが俺の中でランに逢う事は下らない事じゃない。だから2度と言わないでくれ」
「……はい」
 頭を下げたままのランの頬にシュウの手が添えられて、顔を上げさせられた。そのまま濡れた瞼を優しく撫でられる。
「すまない。泣かせるつもりは無かった」
 辛そうに囁かれる声に、わずかに首を振った。
 身勝手な行動をしたのはシュウだが、勝手に激昂して泣いたのは自分。
 ランの意思を理解したのか、シュウはふっと笑うと音を立てて軽くキスをした。
「……あ」
 急に思い出して振り返ると、細い目を極限まで見開いたタティルと目が合う。
 続いてシュウもそちらを見て苦笑した。
「悪い、モランジ伯。後でちゃんと説明する」

 応接室に集まった人数は4人。
 不安そうなランと、上機嫌のシュウ。呆然としているタティルに、不思議な様子のファニー。
 タティルに全て説明すると言ったシュウは、ファニーを同席させるように求め、ランには絶対に何も言うなと念押しした。
 凄く嫌な予感がする。しかし抗えない。眩暈のようなものを感じてランはこめかみを押さえた。
 シュウは一つ咳払いをしてから、ファニーに向き直る。
「初めまして、私はお姉様の同僚のシュウ・バート公爵と申します。こちらは同じく同僚のタティルラード・モランジ伯」
「まぁ、姉さまの。私はデュトイ家の2番目の息女で、ファーニア・デュトイと申します」
 本名とも偽名ともつかない名前を告げたにも関わらず、ファニーはシュウの素性に全く気付かないらしい。社交界デビューしたばかりのファニーが、舞踏会など、ろくに参加しない国王の顔をよく覚えていないとしても不思議は無かった。
 ファニーは静かに進み出ると、ドレスを摘み上げうやうやしく礼をした。
 つられて、シュウとタティルも正式な騎士の礼を返す。
 おかしなことになったと思いながらも、ランは様になっているシュウの騎士礼に見惚れた。
 全員で席について紅茶を少し嗜んでから、シュウが話を切り出した。
「その……突然の事とは思うのですが、私はお姉様と将来結婚したいと考えております。本日はその申し込みに参りました」
「まぁ!」
 ぶっっ!!
 ガシャン!!
 貴族らしく優雅に驚くファニーの声と、思わず口に含んだ紅茶を吹き出したタティル、そして持っていたカップを取り落としそうになってソーサーにぶつけたランの音が同時に鳴った。
「お恥ずかしい話ですが、少し前から私とお姉様は恋仲なのです。しかし私にはすでに親兄弟が亡く、なかなか申し込みに参ることができませんでした。今回、やっと同僚のタティル殿の同道を得て、こうして参った次第にございます」
「……姉さま、そうでしたの? 言ってくだされば宜しいのに。私、姉さまを応援しましてよ?」
「い、いや。その……」
 思わず否定しようとしたが、シュウの瞳がギラリと光ったのを見てランは言葉を飲み込んだ。
 と、シュウは大げさに頭を抱えて項垂れる。
「ああ! あぁしかし、一つ問題があるのです」
「問題?」
「はい。私の家には、実は兄の遺児がおります。今14の子が成人するまで私は婚儀を行うことができぬのです。その子を成人させ我が家督を譲れば、こちらに婿に入ることも叶いますのに!」
「まぁ……。ということは、バート公爵様は姉と我が家の事情もご存知なんですのね?」
「ええ、もちろん。お姉様から全て伺っております。ですから婚約の約束だけで、あと4年待っていただけないかとお願いにあがったのです。身勝手は承知の上ですが……」
(言ってない! 聞いてないっ!!)
 立ち上がって力いっぱい否定したくてもできず、ランはただ手を握り締めて、この茶番劇の成り行きを見守るしか無かった。
「私には、良い御縁のように思えますけれど……姉さまは、どう考えておられますの?」
「ど、どうって。その、ファニーとリーリがいるから、そんな事、考えたことも無い」
 何も言うなとは命令されたが、ファニーから意見を求められたのだから仕方が無い。ランは何も思いつかなかったので、本心をそのまま述べた。
 するとファニーは口に手をあてて、可笑しそうにふふっと笑った。
「いやだわ、私もう成人しましたのよ。リーリだってすでに行く道を決めておりますし、何より、バート公爵様は4年後の話をなさっておられるのでしょう? 4年後にはリーリだって20歳ですわ」
「そ、それはっ、そうだが。いや、しかし」
 すっかり乗せられて、婚約を了承する方向に傾いているファニーを止めようとしたランは、眼を細めてこちらを見下ろしているシュウを見てビクッと身体を強張らせた。
「では、ファーニア殿は私たちの婚約を了承していただけますか?」
「ええ。姉が幸せになれるのでしたら、喜んで」
 勝手にまとめに入ったシュウの言葉に、満面の笑みで答えるファニー。
 ガックリと項垂れたランは、気を失ってしまいたいと本気で思った。
 そして、ひとり蚊帳の外に置かれたタティルは、やっぱり呆然としたまま動かなかった。

 デュトイ家の自室の寝台に寝そべっている男を横目でちらりと見ると、視線に気付いたらしい彼は至極楽しそうにくつくつと笑った。
 あの妙な婚約話の席が終わってから、シュウはランに用があると言って自室へと押し掛けた。
 すっかりシュウに好意的になってしまったファニーは「どうせ婚約前提なのだからゆっくりしていけばいい」などと言うし、付き添いのタティルは廃人同様で使い物にならない。おかげで既に夕刻にさしかかろうという時間なのにシュウは屋敷に居続けているのだった。
 重い鎧を脱ぎ捨て、普段ランが着ているのと同じ近衛騎士の衣装のまま、シュウは勝手に人の寝台を占拠している。
「あのような作り話をして、妹が真に受けたらいかがされるのです?」
 すでにしっかりと真に受けている気はするが、あえて尋ねてみた。
 するとシュウは首を捻って考え込むそぶりを見せた。
「俺、作り話だなんて言った? 全部本気で真実なんだけどなあ」
「……な、なにを仰るのですか」
 怯んだランを見て面白そうにしているシュウは、この期に及んでもランをからかっているとしか思えない。
「まぁ恋人になってからの日が浅いのは目を瞑って貰うとして、俺はランを愛してるし。だからとりあえず婚約前提って事にしといて、ベネートが成人したら俺は隠居。そしたらランと結婚してデュトイ家に降下する。どう、この完璧な計画」
(どう、も何も……)
「あの……そもそも恋人とは少し違うのではないかと……」
 恐る恐る進言するとシュウはきょとんとランを見た。
 突然襲われて、一方的に愛してると言われても、ランは困惑するばかりだ。おかげでちっとも気持ちがついてこない。大体、忠誠を誓った相手を、恋人だと認識しろという方が無理では無いだろうか。余りにも立場が違いすぎる。
 恋愛に疎いランの知識でも、恋人というのは相思相愛の仲を指すくらいは知っていた。
「え、ラン俺のこと嫌い? 俺と寝るの嫌? 気持ち良くない?」
「いえ、そうではなくて……」
 なんで急にそっち方向の話になるのか、と顔を赤くしたランにシュウはにっこりと笑いかける。
「なら良いでしょ。俺も好き、ランも好き。万事解決、ね?」
 屈託の無い笑顔を見て、ランはがっくりと項垂れ、重い溜息をついた。
(こういう人だと判っていたが、話にならない……)
 今ここで突き詰めて話してもシュウは絶対に引かないだろうし、どちらにせよ4年先の話だからと、ランはこの問題を保留にすることにした。
 見上げれば窓の外には夜の闇が迫っている。
「……そろそろお帰りにならなくては大事になりますでしょう?」
 気持ちを切り替えて告げると、シュウは肩を竦めた。
「まさか。まだ用向きは終わってないよ」
「こんなみすぼらしい我が屋敷に、これ以上どんなご用件が?」
 いぶかしむランの声を綺麗に無視し、シュウはランに向かって手招きする。
 その行動を深読みしたランが身体を強張らせると、苦笑して
「違うよ。寝台に座って、ここから動かないでくれる?」
 と言った。
 理由は判らないが、とりあえずすぐにどうこうされそうに無いと知って、ランは素直に寝台に腰掛ける。
 と、シュウは反動をつけて寝台を降り、その足で窓とドアを開け放った。
「陛下……?」
「精霊の力を借りたいから、ちょっと開ける。……ところで、いい加減その呼び方止めない? 陛下って言われるの嫌いなんだよ」
(……そう言われても)
 ランが何も言い返せないでいるうちに、シュウは部屋の床にせっせと何かの魔法陣を描いていく。
 一つも魔法を使えないランには、その魔方陣が何であるのかさっぱり判らなかったが、何よりもシュウが魔法を使えるという事に驚いた。
「魔法をお使いになられるのですね」
「ああ。兄上が即位していた頃は暇だったから、そん時に覚えたんだ」
 シュウはさも簡単なように答えるが、実際は違う。元々の素質が無ければ勉強したところでどうにもならないし、あっても修練を重ねなければ会得できない。だからこそ魔法は人知を超えた力を発揮し、魔術師は重用されるのだ。
 最後の一線を描き終えて、シュウは背中を伸ばすとコキコキと首を捻る。
「……何の魔法でございますか?」
「ん、見たこと無い? 物体転送の魔方陣だよ。魔方陣の上に物を乗せて、ここから別の魔方陣まで飛ばす。ていうやつ」
 ランは眼を瞬かせた。
「それで……なぜその魔法がここに必要なのですか?」
「あると便利なんだ。ま、使い方は後でやってみせるよ。とりあえずセッティングだけさせてね」
 寝台の上に座ったまま、ただ成り行きを見守るランの前で、シュウは魔方陣の中央に立ち、軽く手を広げて何事か呪文を唱え始める。やがて魔方陣がほの白く輝き始め、光がシュウを包み込んだと思った瞬間、昇華するように霧散した。
「……き、えた……」
「はい、おしまい。風が入るから閉めるね」
 見ればシュウが描いた床の魔方陣も綺麗さっぱり無くなっている。
 シュウは何事も無かったかのようにスタスタと窓際に移動して閉めると、反対側のドアも閉めて戻ってきた、ように見えた。
 消えてしまった魔法陣に気をとられていたランは、シュウの閉めたはずのドアがほんの少し開いていた事には気付かなかった。
「あの……魔方陣も消えてしまいましたが」
「うん、いいんだ。見えなくなっただけで空間に刻まれてるから。実際に魔法が発動する時に出てくるようになってる」
「はぁ……」
 魔法のことは全く判らないランにはちんぷんかんぷんだったが、とりあえず成功という事らしい。
 城勤めをしているうち何度か宮廷魔術師が行う儀式などを目にしたが、これほど間近で見たのは初めてで、ランは少しぼんやりしていた。
「……驚いた?」
 急に耳元で囁かれたのでランは反射的にそちらを振り返った。顔が触れそうなほど近くにシュウが見え、息を呑む。
「へ、陛下」
「だからさー、それもう止めようって。俺とランは恋人で婚約者でしょ」
「それは陛下が勝手に……」
「あ、また言った。おしおきー」
 軽い口調とは反対に、あっという間に唇を塞がれ、そのまま寝台に押し倒された。
「んんーっ!」
 キスされたまま抗議の声を上げると、その隙をついてシュウの舌がするりと入ってくる。その感触に背中が粟立った。
 何度経験しても慣れない。自分の物ではない少し冷たいそれが、口腔内を嬲り、自分の舌と絡まるのは、ランを酷く興奮させた。
 ただの口付けだと頭では判っていても、その先を想像してしまう。
 いけないと思いつつ、ランは自然とシュウに応えていた。いつの間にか抗っていたはずの腕は落ち、ただ夢中でキスを受け止めている。
 どれくらいそうしていたのか、やがてシュウの顔が離れると、ランは熱っぽい瞳でぼんやりと見上げた。
「……ラン駄目だよ。そんな顔したら歯止めが利かなくなる」
 困ったように微笑むシュウを見て、ハッと我に返る。
「あ、私……」
「本当は今すぐランとしたいけどね、さすがにまずいでしょ」
 言うが早いか、シュウは寝台から降りて、部屋の真ん中にあるテーブルへ寄りかかった。
 一人残されたランは突然シュウの温もりを失って、ぶるっと身震いする。ゆるゆると起き上がると両手で顔を覆ったまま、大きく溜息をついた。
 少なからず期待していた自分に愕然とする。
 この一月の逢瀬はランの身体をまごうこと無き『女』へと作り変えてしまっていた。
 冷ましきれない熱を秘めたまま、ランは寝台を降りると、先ほどシュウが閉めた窓をもう一度開け放った。
 すっかり日の落ちた景色の向こうから夜風が入り込み、ランの髪を揺らす。冷やりとした風は今のランには丁度良い。
「……城は大丈夫でしょうか?」
 こんなに長い時間、国王が不在では、そろそろ気付く者もいるだろう。
 ランが窓の外を眺めたままそう言うと、シュウはくすくすと笑った。
「俺にそっくりの影武者を置いてきたから、大丈夫だろう」
「そんな方がいらしたのですか?」
 驚いてシュウへ振り返る。近衛騎士にも知らされていない事実だ。
「あまり長い時間頼むと怒るけどさ。……って、さすがにそろそろ帰らないとまずいかな」
 軽く笑いながら、シュウは廊下へのドアに手をかけた。先ほど少し開けておいたはずのドアはいつの間にかしっかりと閉じられている。
 まだ窓際でたたずんでいるランに見えないようにシュウは口角を上げた。
 ランが見送りのために近づくと、シュウはドアを開けないままくるりと振り返って、ランを抱き締めた。
「あ……陛下!」
 抗議の声を無視して耳元へ口を寄せる。
「また後で来るから。続きはその時に」
「なにを仰っているんですかっ!」
 憤って力の限り抵抗するランの頬にキスを落とすと、シュウは後出にドアを開け、さっと身を翻した。
「だーいじょーぶ。次からは危なくない方法で来るからさ」
「こんなお戯れは、もう結構ですっ!!」
 廊下に響くランの声に、シュウはカラカラと笑った。

   

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