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 TRY ME !

 1
どんなに思い返しても、記念日でも何でも無い、とある平凡な日の夜。突然アパートを訪ねてきた十数年来の幼馴染に、物部数登(ものべ かずと)は困惑した。
大学に進学してから二年。勉強に明け暮れた数登はほとんど実家にも帰らず、互いの両親を介して彼女の近況だけは知っていたものの、直接会った事は無かった。
最後に顔を合わせたのは彼女が高校に入学したての頃。真っ黒に日焼けした痩せっぽちの子供で、お世辞にも魅力的じゃ無かった。もちろん、家族同然の立場の少女を性的な目で見た事は無いが、あれでは彼氏もできないだろうと、自分を棚上げして思ったものだ。
それなのに、今目の前に立ってこちらを見上げる少女は、あの頃からは想像できないくらい色白で、肩や腰がふっくらと丸みを帯びている。思わず見てしまった胸は、そこにはっきりと存在を主張していた。
会わなかった間に伸びたらしい、まっすぐな黒髪を背中に垂らし、小首をかしげる彼女は、とまどうほどに女性らしく美しく変わっていた。
恥ずかしさを含んだ気まずさを感じながら、数登はがりがりと頭を掻く。
今夜中に最近発表された海外の物理博士の論文を読んでしまおうと思っていた……というのは、まあいいが、幼馴染とはいえ既に十八歳になる少女を、男一人暮らしのむさ苦しいアパートに招き入れて良いものかをしばし悩む。
数登の困惑には気付いていないらしい彼女は、アパートの玄関で不思議そうな顔をした。
「……ねえ、カズくん。入れてくれないの?」
「あ、その……散らかってるしさ……」
事実、散らかっているのだが、教本やら課題用の試作の部品やらが無造作に置いてあるだけで、隅に寄せれば問題は無い。ちらりと後ろを振り返った数登は、キッチンと部屋を繋ぐドアの隙間から、ベッドカバーの模様が見えるのに気付いて焦った。
そんな事など気付かない彼女は、くったくのない笑顔を見せた。
「私そういうの全然気にしないし。何なら片付けるの手伝ってあげるよ?」
「い、いい。大学の教材だから」
ぶるぶると首を振って否定する。中に散らかしてあるものではなく、ワンルームに近い単身者用アパートの作りが問題なのだと言いたいのを、かろうじて堪えた。
数登の態度に怪訝な顔をした彼女は、ハッとして声を潜める。
「あ、もしかして、彼女とか来てる?」
「はぁ? そんなの、いない」
お互いの近況が筒抜けだというのもあるが、地味で口下手な上、男ばかりの工大に通っている自分のどこを見て彼女持ちだなんて思えるのかと呆れた。
「なら、良いでしょ。どんなに汚くても気にしないし、カズくんちのおばさんにも言わないから。ね?」
無駄に背の高い自分に向かって、上目遣いで微笑む彼女に心臓が震える。
……恋愛対象になりえないはずの少女にドキドキするなんて気の迷いだ……。
そう心の内で繰り返していた数登がぼんやりしている間に、彼女は隙間をすり抜けて部屋に上がり込んだ。
「おい、更紗(さらさ)!」
焦った数登は、寝室兼用の部屋のドアを開けようとしている彼女の肩を思わず掴む。
思ったよりも遥かに華奢で薄い感触に驚いた数登が手を離す前に、更紗はパッと振り向いた。
「……やっと、名前、呼んでくれたね」
嬉しそうに笑う更紗の瞳が、部屋から漏れ出る蛍光灯の光を反射する。喉元まで出掛かっていたはずの抗議の言葉をぐっと呑みこんだ数登は、手を外す事も忘れ、ただただ彼女の顔に見入っていた。

「……で、何しに来たんだよ」
目の前に座る更紗を直視できず、数登は目を逸らしたまま、ややぶっきらぼうに問いかける。
結局、驚いてぼうっとしているうちに追い返すチャンスを失ってしまった数登は、食事の為だけに存在している小さな座卓を挟んで、更紗と向き合っていた。
「カズくんに会いたかったのと……相談と提案……かな」
訪ねてきた時の勢いとは裏腹に、消え入りそうな囁き声で更紗は答える。横目で一瞬だけ視線を向けると、硬い表情をした彼女は、俯いているせいで落ちてきた長い髪をそっと耳に掛けていた。
「相談って言ったって、二年も会ってなかった俺に答えられる事なのか?」
いくら親経由で近況を知っていると言っても、直接聞いた訳でも無い数登が相談に乗れるとは思えない。歳が近くても性別が違うし、彼女どころか女友達すらいないのだから、女の子の悩み事なんて想像さえつかなかった。
更紗はゆっくりと頷くと、意を決したように口元をきゅっと引き結んで顔を上げた。
「カズくん、今まで彼女とか居た事ある?」
「ぅえっ?!」
唐突な質問に目を剥く。ぎょっとしたせいで思わずおかしな声が出た。
「今いないのは、さっき聞いたけど……前に居たり、した?」
「な……ちょ、ちょっと待て。何で急にそんなの聞くんだよ。聞かれる理由が判んないし」
あからさまにうろたえている数登の様子には構わず、更紗は座卓に手を突いて身を乗り出す。
まっすぐに見つめられた数登は、身を引いて仰け反った。
「理由は、答えてくれたら言うよ。だから、教えて?」
……なんかそれって、ずるくないか?
理由は後で教えるから先に答えろ、なんてフェアじゃない。が、年下の女の子にそんな事を言ってどうなるのかと、急に馬鹿馬鹿しくなった。
「俺に彼女がいたら、母さんが黙ってるわけないだろ。俺、隠し事下手だし、すぐにばれて、大はしゃぎするに決まってる」
溜息と共に言葉を吐き出した。
異性の幼馴染に恋愛経験がゼロだと白状するのは、さすがにちょっとへこむ。なりふり構わないくらい恋人が欲しいという訳でも無いが、実際モテたことも無いから、尚更、苦痛だった。
更紗は何が楽しいのか、にこにこと笑っている。
別人のように可愛らしくなった彼女には、モテない男なんて滑稽に見えるのだろうと、数登は内心卑屈な気持ちになった。
「カズくんも、彼女居た事無いんだ……」
「悪かったな。モテないのは、見れば判るだろ」
数登はふて腐れて、そっぽを向く。
一瞬きょとんとした更紗は、またふわりと微笑んでから首を振った。
「悪くないよ。私もモテないし、彼氏居た事無いもん」
「……」
意外な言葉に目を見張った数登は、目の前の更紗をもう一度眺めて、正直な気持ちで彼女の言葉を否定した。
色を抜いていない黒髪と白い肌。以前会った時と変わらず細いが、年頃の少女らしく丸みを帯びた肢体。それぞれは大きくないものの、バランスの良い目鼻立ちに、淡く色づいた唇……。
いつの間にか凝視している事に気付いた数登は、自分が鳴らした喉の音にハッとした。
……まずい、凄く。
数登は右手の甲で口元を隠し、強く唇を噛んだ。
羽化した蝶のように、突然、女として現れた幼馴染を、異性として見ている事に愕然とする。彼女をどうにかするほど自分に意気地があるとは思えないが、余計な事を口走る前に帰すべきなのは明白だった。
更紗を追い帰す為の理由を考え始めた数登は、座卓に置いたままだった左手に触れた温もりに目線を上げる。見れば、固く握った左手の上にほっそりした更紗の右手が被さっていた。
「更紗?」
伝わってくるかすかな震え。何事かと見つめた先の彼女は、頬を染めて瞳を潤ませていた。
「もし、カズくんに彼女いないなら……私と、えっち、しない?」
「なん……」
とつとつと紡がれる更紗の耳障りの良い声が脳に届いた時、数登の目の前は真っ白になった。
驚きの連続で、何がどうなっているのかが全く判らない。余りの驚愕に目と耳を塞がれた数登は、激しく打ち続ける胸の鼓動だけを強く感じ取っていた。

さわさわと左手に触れる滑らかな感触に気付いた数登は、立て続けに瞬きを繰り返した。
ゆっくり戻ってくる音と視界の中で、更紗と触れ合っている左手から、ぞわりと怖気が走る。鳥肌の立つような興奮を覚えた数登は、とっさに彼女の手を払い除け、力いっぱい睨んだ。
顔が発熱したように熱い。耳の奥がどくどくと脈打っていた。
ここ二年はともかく、それまで親しくしていた仲だからこそ、言ってはいけない事がある。
驚きなのか、興奮なのか、怒りなのか、はっきり判らないグチャグチャの感情のまま、数登は声を荒げた。
「お前、何言ってるか判ってるのか!? 冗談もいい加減にしろよ!」
「……っ」
数登の激情をぶつけられた更紗は一度大きく身体を震わせたが、何も言わず、ただ俯いて首を何度も振った。
「……帰れ。もうここに来るな。さっきのは……忘れる。お前も忘れろ」
言い切って、深く息を吐いた。
冷静に考えれば、他愛ない冗談だったのかも知れない。直接目にした事は無いが、時々そういう下世話なジョークを言う奴がいるのも知っていた。
だとすれば、数登が年上の余裕で、軽く受け流せば良かったのだろう。だが、更紗を女性として見てしまっていたからこそ、聞き流せなかった。心の奥底の欲望を言い当てられた気がして、怖かった。
動く気配の無い更紗を追い出すために、数登は立ち上がって彼女の腕を取る。どこもかしこも細く柔らかい事には気づかない振りをして、引き上げた。
まるで操り人形みたいに為すがままの更紗は、促され、ゆっくりと立つ。
俯いている更紗の表情は窺い知れないが、見ない方が良いと判断した数登はわざと無言で入り口の方へ歩き出した。
と、いきなり掴んでいた手を振り払われる。何事かと後ろに向き直った数登は、顔を真っ赤にしながらこちらを睨む更紗を見た。
「冗談なんかじゃ、ない。私、カズくんに抱いて貰いたいから、来たんだよ」
「なっ……!」
「だって、初めてはカズくんが良いんだもん! 他の人じゃ嫌なのっ」
畳み掛けるように告げられた言葉に面食らう。男としては嬉しい展開なのだろうが、女性に迫られた事など無い数登は、どうしていいか判らずうろたえた。
まして相手は子供の頃から知っていて、対象外だと思っていた少女。欲望と理性の混沌に叩き落された数登は、落ち着き無く視線を彷徨わせた。
「きゅ、急にそんな事言われても。……大体、何で俺なんだよ……そりゃ、い、嫌って訳じゃないけど、ずっと会ってなかったのに、おかしいだろ。お前、俺の事、好きだったのか?」
いくら恋愛経験の無い数登だって、二年間、声さえ聞かなかった子に「好きだった」と言われても信じられない。
一度気付いてしまった不信感はあっという間に大きく膨らみ、モテない自分をからかうためのドッキリのような気までしてきた。
更紗はこちらに向けていた瞳を僅かにずらし、急に辛そうな表情をつくると小さく溜息をついた。
「カズくんの事は好きだよ。でも、どういう好きなのかは、よく判らない。ただ……私も誰かとえっちするんだろうなって考えたときに、カズくん以外は嫌だなって思ったの」
自分でも、とまどっているらしい更紗にドクンと心臓が動く。
無意識に酷い誘い文句を言った事など気付いていない彼女は、物憂げな顔で言葉を続けた。
「ウチのお母さん、バツイチでしょ。お父さんと再婚する前の話だから、私は直接関係無いんだけど、前の人の事を聞くと凄く嫌な顔をするんだよね。……最初の彼氏で、愛してたはずなのに、今は憎んでる。それって、初めての思い出が台無しになったって事でしょ?」
更紗の母親に離婚暦があるというのは、近所の噂で聞いた事がある。以前の夫ときちんと別れたのだから、特に隠す必要も無かったのだろう。
昔の事だし、どんな人だったのかも、別れた理由も知らない。興味も無い。その後、再婚したおじさんとの間に更紗が生まれて、円満な生活が続いていた。
「今は憎んでるとしても、そん時は好きだったんだし、仕方ないだろ……」
そんなもの、今更とやかく言ったって始まらない。今が幸せなら良いだろうと思うのだが、更紗はそうでは無いらしかった。
「でも、それって悲しいよ。初めては特別だもん。嫌な思い出にしたくない」
「嫌な思い出になるかなんて判らないだろ。この先すげー良い奴が現れて、そいつと死ぬまで一緒にいるかも知れないし。そういう時の為に、取っといた方がいいって」
言いながら、自分でも白々しいと思う。さっきからドキドキしっぱなしの身体と本能は、彼女の誘いを喜んでいた。しかし、幼馴染として積み重ねてきた時間が、それを阻む。
数登はなけなしの理性を振り絞って、更紗を説得しようと手を伸ばした。
「……そんなの、待てない」
「え」
間抜けな顔で聞き返した数登に、更紗は熱っぽい視線を向けた。
「最近、変なの。……えっちな事いっぱい考えちゃうし、そういう夢も見るし……ドキドキしすぎて、どうにかなりそう」
「!」
頬がかあっと熱を帯びる。今の今まで子供だと思っていた更紗にも、性欲があるという事に驚いた。
……やばい。本気でまずい。
何か恐ろしいものに対峙したかのように、数登はじりじりと後ずさる。元々の部屋が狭いのだから、いくらも下がらないうちに背中がドアにぶつかった。
これ以上逃げられない事にハッとした次の瞬間、一足飛びに近づいた更紗の唇が、数登のそれに重なっていた。

   

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