隣の席から手を取って 5 いったいどうしてこうなった、話が違う……と心の中で文句を並べ立てる。 もともとの予定では、とうに家へ帰って、元カレから贈られた抱き枕に呪いの言葉を浴びせかけ、飛び膝蹴りをお見舞いしているはずだった。 それが隣の席に座る手フェチの後輩の家で、いいように喰われて足腰立たなくされているとは! ……まあ、最初に美味しくいただいたのは私の方だけど。 しかしまさか、いつもぼんやりしている彼がかなりご立派なものをお持ちで、肉食もびっくりな活躍をするとは誰も思わないだろう。 手フェチであることを公然と語っていたから社内でも全然モテていないし、本人は彼女を作る気もなさそうだったし、平凡なあっさり顔のとおりアッチも淡泊なんだと思っていた。全部勝手な想像で。 はあっと溜息をつく。 まだかすかに震えている身体をなんとか動かして寝返りを打つと、隣で横になっていた渉が眉を上げた。 「あ、目が覚めました?」 本当はけっこう前から気がついていたけど、すぐ話をする気になれなくて寝たふりをしていた。 「……ん」 わざと機嫌が悪いふうに装い、しぶしぶって感じにうなずく。私が良い顔をしていないことに気づいて、渉はサッと蒼褪めた。 「やっぱりどこか具合が悪いんですか?」 彼はまだ私が酔い潰れた時のことを心配しているらしい。 強い酒より性質が悪い目の前の男に向かって、私は思いきり頬を膨らませた。 「違うよ。渉、ヤリすぎ!」 一瞬、何を言われたのかわからないようにぽかんとした渉は、次に目元を染めて視線をそらした。 「あ、う、すみません。彬子さんがエロくて、可愛くて。それにやっと気持ちが通じたから夢中で……」 ぼそぼそと付け加えられた最後の理由に、引っかかりを覚える。そういえばコトの最中にも、以前から好きだったというような話を聞いた。 前からってどういうことだろう。彼には申し訳ないけど、全然気づいていなかった。 「ねえ。いつから私のこと、その……好き、とか思ってたの?」 アラサーになっても「好き」なんて言葉を口にするのは照れてしまう。 渉は目線を戻さないままピクッと震えて、居心地悪そうに溜息をついた。 「……最初からです。初めて会った時から、ずっと」 「えっ!」 つい驚きの声を上げてしまった。 私たちが初めて会ったのは、彼が新入社員としてやってきた時だ。四歳下の渉は今年で入社四年目になるはず。 嘘でしょ……四年も……? 私の驚く顔を見た彼は自嘲気味にふっと笑い、「本当ですよ」と言葉を重ねた。 「先に目がいったのは彬子さんの手だったんですけどね。すらっとしていて柔らかそうで、綺麗だな、触りたいなーって思っているうちに、あなた自身に焦がれていました。それまでは他人の手なんて気にしたことなかったのに」 聞き捨てならない言葉に、目を剥く。 「は!? だって渉、完全に手フェチじゃないの!」 「違いますよ。好きなのは彬子さんの手だけです」 「ええーっ。他の人の手も触ってたでしょ!?」 私の指摘を受け、不思議そうな顔をした渉は、何かを思い出したようにうなずいた。 「そういえば、どうしてあなたの手にだけこんなに惹かれるのか確かめたくて、他の人のを触らせてもらったことはありますね。数えるくらいですけど」 おもむろに伸びてきた彼の手が、私の手に優しく触れる。指を一本ずつ交差させる形で絡められ、私は反射的に息を呑んだ。 「で、でも、私が前に手フェチなのか聞いた時、否定しなかったよね?」 渉が入社してきて一年くらい経った頃、デスクが隣同士になったせいでしょっちゅう手を触られるようになった。 状況から考えて、彼はどうやら無意識に触っているようだし、セクハラなのか判断に困る程度の触れ合いだったから、どういうつもりか直接尋ねたことがある。 その時「つい触ってしまう」と答えた渉に「手フェチってやつ?」と訊いたけど、はっきり違うとは言われなかった。 彼は私の手を見つめ、まぶしそうに目を細める。 「そりゃそうですよ。否定したらもう触らせてもらえなくなるじゃないですか。彬子さんが好きで、手の感触を楽しんだり、色々と妄想したりしてますなんて、恋人でもなきゃ引かれるの確実でしょ」 いや、それ、もし恋人だとしてもドン引きだけどね! 内心で思いきりつっこみを入れる。 私が顔を引きつらせていることに気づかない渉は、過去を思い返しているのか、遠い目をして小さく息を吐いた。 「せっかく皆が協力してくれて隣の席になれたのに、あなたはあの男を信じきっているし、俺のことは全然意識してくれないし。だから手を触るくらいは許されるかな、と」 彼の言う「あの男」が元カレのことだというのはわかる、けど……。 「協力って……誰が?」 「ああ、うちの課の同僚の皆さんです。あと課長と係長も。彬子さんがダメな男と付き合っているのは知れ渡ってましたから、俺があなたに片想いしているとバレてからは応援してくれていて」 「ええええっ!?」 次々と明かされる真実に、驚愕の叫びが飛び出す。 昼休みや、飲み会の席の女子トークで、訊かれるまま元カレの話をしていたから、同僚があいつに低い評価を下していたとしても驚かない。実際、なぜとっとと別れないのかと呆れられたこともあった。 でも、陰でこっそり渉を応援していたとは……。 「もう何年もずーっと隣の席で、いつも一緒に残業させられているのに、おかしいと思いませんでした?」 呆れ混じりの彼の言葉に、少しムッとする。 また隣か、と思ったことはあるけど、デスクの配置変更が行われるのは年に一度の人事異動の時だけだし、席を決めているのは課長だ。そこに他意が含まれているなんて気づくわけがない。 残業だって同じこと。私の担当業務が終わらなかったり、突発的な案件が舞い込んだりした場合に、補佐するよう命じられるのはいつも渉だけど、仕事の割り振りは係長に一任されている。それが私たちをくっつけるための策だったとは、種明かしをされた今でも信じられない。 「そう言われても、渉のことは良い後輩だと思ってたもの……」 遠まわしに「鈍い」と言われた気がして、言い訳を口にする。 居たたまれずに顔を背けようとしたけど、彼の手に頬を押さえられて真正面から覗き込まれた。 「今は?」 「え?」 「今はもう、ただの後輩だなんて思えませんよね? こんなことになっちゃって」 唖然とする私とは対照的に、渉は何も着ていない身体を見下ろし、口の端を上げた。 「そ、れは……その、そうだけど……」 改めて今の状況を突きつけられ、焦りと不安が頭をもたげる。 どうしよう。失恋と酔った勢いで、なし崩しに関係を持ってしまったけど、この先のことなんて何も考えていない。 このまま渉と付き合うのか、一時の過ちとしてなかったことにするのか……。 見つめた先の彼はまだ若々しくてまぶしい。二十五と二十九の年齢差が思ったより大きいことに、今さら気がついた。 混乱のなかで、夕べ傷つけられた心が震え出す。 ……何もすぐに付き合いはじめなくてもいいんじゃないの。身体の相性が良いのは認めるけど、少しずつお互いのプライベートを知ってから答えを出したって遅くないはず。結論を急いで「思っていたのと違う」なんてことになったら、お互い傷つくんだから―― 次々と湧いてくる易しく後ろ向きな考えが、強引なキスで断ち切られる。 乱暴に唇を押しつけてきた渉は、顔を離すなり不機嫌そうに目をすがめた。 「彬子さん、俺のこと適当に言いくるめて付き合ってくれない気でしょう。全部、顔に出てる」 「うっ」 恥ずかしいやら、みっともないやらで、とっさに目をそらす。彼はそれさえ許さないというように、お互いの額をくっつけた。 「ダメですよ。逃がしません。言っておきますけど、先に手を出したのは彬子さんの方ですからね。ちゃんと責任を取って俺の彼女になってください」 一番はじめに「責任を取れとは言わない」と宣言したけど、彼の方から「責任を取ってくれ」と迫られるとは思わなかった。 「普通はそれ逆じゃないの?」 「今は男女平等の時代ですよ」 私の疑問をへりくつっぽい理由で一蹴して、渉はパッと顔をほころばせる。本当に嬉しそうな笑顔を向けられ、怯えていたはずの心がどくんと跳ねた。 呆れてしまうほど大きな愛情を感じる。 昨日までの恋愛のように、いつか飽きられて上手くいかなくなるんじゃないかという心配が、凄くバカバカしく思えてきた。 「もう」 ふっと息を吐く。 半ば諦めの境地に至った私を見つめ、渉は静かに眉尻を下げた。 「……やっぱりダメですか? 俺が相手じゃ嫌?」 聞いている方の胸が痛くなるような、弱々しい声。どうやら彼は私の態度を逆に受け取ったらしい。 ぐっと唇を噛んで恥ずかしさを振りきり、目の前の身体に縋りつく。何かを言われるより速く、渉を思いきり抱き締めた。 「嫌じゃないから困ってるの! 私、四つも年上で……誕生日がきたら三十なんだよ? 美人でもないし、家事だってできないし、またダメになるかもしれないのに……」 隠しきれない想いが溢れ出す。ほとんど泣き言と変わらないことをぼそぼそと続けていると、息が止まるほどきつく抱き返された。 「あー、くそ。なんですか、それ。びっくりさせないでくださいよっ!」 「んなっ。ちょ、くるし……っ」 呼吸困難に陥り、目を白黒させながら渉の胸を押し返す。私の方こそ「驚かさないで」と言いたかったけど、息苦しくてそれどころじゃない。 大きく背中を反らして空気を吸い込んだところで、私の首の根元へ彼が顔を埋めた。 「好き、です。彬子さんが好きです。何度も諦めようとしたけど無理だった。だから俺のものになってください。俺は絶対にあなたを裏切りません。大事にするって約束しますから」 渉の想いが触れ合う肌から伝わり、心を強く揺さぶる。不覚にも泣きそうになってしまい、私はまばたきをくり返して涙を抑えた。 「……それなら、いいけど」 こんな時でも上手く甘えられない自分に嫌気が差す。さすがに「私も好きだよ」なんて返すほど気持ちは動いていないけど、もっと可愛いことが言えたらいいのに。 高飛車とも取れる私の返事を聞いた彼は、嫌な顔をすることなく「嬉しい」とつぶやいた。 恋の終わりも、はじまりも、あまりに唐突でまだピンとこない。 だけど、こんなにも深く、うっとうしいほど愛されているなら大丈夫なんだろう。別の意味で困りそうなのは、さておき。 「渉」 私の声に気づいて、彼が顔を上げる。 すかさずキスをしかけた私は、唇を触れ合わせまま微笑んだ。 END 4 ← |
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