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 隣の席から手を取って

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 ううー、むしゃくしゃする。どうしてこんな日に残業なんてあんのよっ!
 心の中で盛大に毒づいた私は、イライラをぶつけるようにパソコンのキーをがちがちと打ち据える。わざと音が鳴るようにエンターキーを叩き込むと、隣のデスクの同僚が驚いて顔を上げた。
「あれ、どうしたんですか。高井(たかい)さん、今日ちょっと荒れてません……?」
 朝からこれ以上ないくらい不機嫌オーラを出しまくっていたというのに、隣に座る後輩はまるで気づいていなかったみたいにのほほんと首をかしげる。
 仕事が速いし、些細なことに動じず的確な判断をくだすことができるけど、ちょっとぼんやりしているのが彼、間々田渉(ままだ わたる)という男だ。
 私は内心で「今ごろ気づいたのかい!」とつっこみを入れてから、溜息をついた。
「あー……うん。ごめん。夕べ人生史上最高に胸糞悪いことがあってさ。仕事絡みじゃないんだけど、ちょっとイライラしてる、かも」
 全然関係ないパソコンに八つ当たりして職場の雰囲気を悪くするのは大人げないし、同僚にも凄く申し訳ないと思う。でもムカムカしすぎてダメだ。とても隠しておけない。
 本当は会社を休んで飲んだくれて、元カレに対する罵詈雑言を吐きまくり、奴がくれた抱き枕に思う存分パンチを入れてやりたいところだけど、さすがに二十九歳にもなって失恋ズル休みはみっともなさすぎる。
 社会人としてのプライドとアラサーの見栄をかき集めて、私は今この席に座っていた。
「そう言われれば、手も少しかさついていますね」
 横から伸びてきた間々田くんの大きな手が、私の右手をスッと持ち上げる。続けて指先を撫でられ、思わず震えてしまった。
「ちょっと、いきなり他人の手を握らないの!」
 とっさに左手で彼の腕をはたく。
「あ、すみません。手荒れが気になって、つい……」
「つい、じゃないよ。もう」
 わざとらしく顔をしかめると、間々田くんはゆるい苦笑いを浮かべた。
 実は彼はかなりの手フェチで、無意識に人の手を眺めたり握ったりするやっかいな癖がある。
 しかも私の手は、間々田くんの理想に物凄く近いらしい。おかげでしょっちゅうこうして手を触られていた。
 ……手の形が完璧だって褒められても嬉しくないけど。
 手だけとはいえ恋人でもない男と触れ合うなんて、はじめは冗談じゃなかった。けど最近はいつものこととして受け流している、というか触られるとちょっとゾクッとしてしまう。慣れって恐ろしい。
 ドキドキしていることを悟られないように手を引くと、逆に強く掴まれ戻された。
「間々田くん?」
「少しだけ休憩しましょう。手のマッサージをさせてください。凄く疲れているみたいで、むくんじゃってますから」
「え……」
 彼の意外な発言に目を瞠る。今まではただ触られるだけで、それ以上のことはなかった。
 それに、手がむくんでいるって……。
 疲れているのは事実だけど、視線を向けた自分の手はいつもと変わりないように見える。間々田くんくらいコアなフェチになると、ミリ単位の違いもわかるようになるのだろうか。
 バカバカしいことを考えているうちに、私の右手が彼の両手に包まれる。じわじわと伝わってくる体温を感じた私は「しなくていい」とは言えなくなっていた。

 間々田くんは時間をかけて私の手の強張りをほぐしていく。
 手のひらの筋肉から指の付け根、指の一本一本を丹念にマッサージして、手首、腕、肩まで揉んでくれた。
 いくらサービス残業で、私たち以外に誰もいないといっても、こんなにのんびりしていていいのかと不安になるくらい癒された。
 見ためにはわからなかったけど私の身体は予想以上に凝っていたようで、すべてが終わる頃には上半身がぽかぽかしていた。
 身体の緊張が取れるのに合わせて、硬くなっていた心もゆるむ。
 必死に張り巡らせていた壁が融けて消え去り、ふと蘇った夕べの衝撃が胸の奥深くに突き刺さった。
 あ、まずい……。
 せり上がる嗚咽を必死に呑み込む。
 今、思い出しちゃダメだ。ここは会社だし、まだ仕事中だし、私は先輩社員で後輩が目の前にいるのに。
「高井さん?」
 私の顔を覗き込んだ間々田くんが、驚いたように目を見開く。
 取り立ててイケメンというわけじゃないし、清潔感はあるけどおしゃれでもない。見ためはその辺によくいる普通のサラリーマン。
 そんな彼の輪郭が、歪んだガラスを通したようにグニャグニャと揺れていた。
 慌てて手で顔を覆い隠そうとしたけど、間々田くんに止められる。何をするのかと憤慨し、睨みつけたところで涙がこぼれ落ちた。
 人前で泣くなんて、情けないから絶対嫌なのに……!
 悔しさに唇を噛んで顔を背けると、目尻にそっとハンカチが押し当てられた。ふわりと鼻をかすめる、間々田くんの香り。
「俺ので嫌じゃなければ使ってください。手でこすると肌が傷むから」
 優しい言葉が心に沁みる。また溢れてきた涙を見られたくなくて、ひったくったハンカチに顔を埋めた。
 間々田くんのくせにイケメンっぽいことをするとは生意気だとか、そもそも間々田くんがマッサージをするからだとか、理不尽な怒りが込み上げる。けど、止まらない涙と嗚咽のせいで、彼を詰ることも、「ありがとう」と言うこともできない。
 ふっとかすかに笑った彼が、私の頭を優しく撫でた。
「あとは俺でもできますから、高井さんは少し休んでいてください」
 いい歳をして会社でこんなふうに泣くなんて恥ずかしい。でも、一度決壊した感情はなかなか治まってくれない。
 間々田くんがキーボードを叩く音を聞きながら、私はただ彼のハンカチを握り締めていた。

 結局、残りの仕事はすべて間々田くんがやってくれた。
 居たたまれない私は逃げ帰ることもできず、彼に手を引かれるまま会社近くの居酒屋へ連れていかれた。
 細かい経緯は忘れてしまったけど「嫌なことは飲んで忘れた方が良い」というようなことを言われ、普段は手を出さない強めのお酒を頼んで酔っ払い……また泣いて。
 涙なんだか、鼻水なんだか、よくわからないものでドロドロになりながら、昨夜のことを洗いざらい間々田くんにぶちまけたような気がする。
 よくあることと言ってしまえばそれまでだけど、昨日、私は恋人の浮気現場に遭遇した。
 仕事に忙殺されていた私が、自炊を怠けてお気に入りのレストランでおひとり様をしていたところへ、彼氏が見知らぬ女とやってきたというわけ。
 奴は相手の女にべったりとくっついて入店し、まわりの冷めた視線をものともしないで、これみよがしにいちゃついていた。あまりにもチャラくてバカっぽい態度に、よく似た他人かと疑ったほどだ。
 それでも最初は何も見なかったことにしておこうと思った。
 相手の女が素人とは思えないほど派手だったから、どこかそういうクラブとかキャバレーで知り合い、はめを外したくて連れてきたのかも、と。
 飲み屋のおねーちゃんとちょっとデートするくらいの浮気を咎めて、ケンカになるのもバカバカしいし、恋人とはもう長い付き合いだ。お互い仕事が忙しいから結婚せずにズルズルきてしまったけど、あんなことで別れられるほど浅い関係じゃなかった。
 そう。少なくとも私は恋人を大切に想っていた。時間がないなりに相手を尊重して、共に人生を歩いていきたいと願っていた。
 ……だけど奴にとってはそうじゃなかったようだ。
 あの店が二人で見つけたお気に入りだということを忘れ、当然、私が近くにいるとは気づかずに、あいつは大声で私への文句を垂れ流しはじめた。
 疲れた顔で笑いながら、私の存在が重いのだと推定キャバ嬢にグチる。
 男勝りで仕事ばかりしていて可愛げはないし、ろくすっぽ家事もできず、恋人である自分に尽くすこともしない。とても結婚する気にはなれないが、二十九歳のがけっぷちな女を今さら放り出すわけにもいかないと大げさに嘆いていた。
 物凄く傷つくと、人は感情が麻痺してしまうらしい。
 私は何も考えられないまま立ち上がり、驚く彼に別れを告げて店をあとにした。
 「こっちだってお前みたいなクソ野郎は願い下げだ!」と怒鳴りつけ、ぶん殴っておけば良かったと気づいたのは、帰宅後、奴の電話番号を着信拒否にしたあとだった。
 私にとっては壮絶な、世間的にはどうでもいい別れ話の顛末を聞いた間々田くんは、言葉を尽くして慰めてくれた……と思う。たぶん。腹立たしいやら悔しいやらでぐちょぐちょに泣いていたから、あんまり覚えていないけど。
 で、それから……それから? あれ、どうなったんだっけ……。
 心の中で首をひねりながら重い瞼を上げる。
 薄暗い景色をしばらくぼーっと眺めてから、自分がどこかの家の中にいると気づいた。

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