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 終わらない恋の続き

  後編

 湿り気を帯びた夜風を感じながら、駅までの道を歩く。
 店を出た私たちは、もう少し話をしたいというトモの希望によって、最寄ではなく一つ向こうの駅まで行く事にした。
 と、言っても地下鉄の駅だから、ほんの数ブロック先までだけど。
 他愛の無い話をしながら、また昔の彼を思い出す。こういう時間の無駄とも思える事が好きな人だった。
 懐かしさに思わず笑うと、気付いたトモが振り返った。
「どうしたの?」
「思い出したの。トモはこういう探検が好きだったなあって」
「探検?」
 ゆっくり頷いた私は、不思議そうな彼に探検の内容を説明した。
 定期券を使って行ける場所へわざわざ歩いて行ったり、どこへ繋がっているかも判らない路地を入ってみたり。目的も無く出掛けた見知らぬ街を散策したり……。
 嫌だ、疲れる、と文句を言いながら、ついて行った先で楽しい発見をする事も多かった。
「……多分、初めて会った場所に来たのも、探検のつもりだったんだと思うよ。聞いた事は無いけどね」
 そうでなければ、あんなに奥まった人気の無い所に来る訳が無い。トモは私の事を変わっていると笑っていたけれど、彼も変わり者だったからこそ、あの場所で出会ったのだろう。
 結局、似たもの同士って事か。
 そう考えると、お似合いだと言うトモに憤慨していた自分が可笑しかった。
「僕って、もしかして、かなり子供っぽかった?」
 ぼそぼそと呟かれた声に目線を上げると、彼は戸惑いの表情を浮かべていた。
「んー……まあ、子供っぽい方ではあったけど。どうして?」
「余りにも今の僕と違うからピンと来ないというか。自分じゃないような気がして……」
 ずきりと胸が痛む。
 別人のようになってしまった事に周りが戸惑うよりももっと、彼自身は辛い思いをしているのだろう。助けてあげたいのに何もできない事がもどかしかった。
「トモは、トモだよ。確かに変わった所もあるけど、変わっていない所もあるじゃない。こうやってわざと遠回りしたり」
 少し茶化して言うと、トモは嬉しそうにふんわりと笑った。
「そうかもね」
 思わず目を逸らす。痛みとは違う意味で、胸の奥がちりちりした。
 再会するまで見た事が無かった淡い笑顔。穏やかな眼差し。最初の頃に感じていた違和感は無くなり、いつしか少しずつ惹かれてしまっていた。
 図々しいと自分でも気付いていた。元に戻りたいと願う彼に対して、この想いは余りに失礼だ。
 それに私は彼を騙し続けている。今更、元に戻れる訳が無かった。
 ……もう会わない方が良いのかも知れない。
 光に溢れた市街地の中、歩道脇をすり抜けていく車のテールランプを見ながら、そう思った。

 その夜、夢を見た。
 2年前のトモと私の……。

 いつも通りに仕事を終えた私は、会社の前に立っているトモを見つけて驚いた。
「トモ、どうして……」
「ん? 暇だから迎えに来た」
 何でも無い事のように笑う彼に、少しだけ苛立った。
 サプライズ好きな彼は、時々こんな風にふらりと現れる事がある。私の予定を全く無視して。
 付き合いたての頃は私も学生で時間に余裕があったから、彼のドッキリを素直に喜んでいたのだけど、最近は迷惑以外の何物でも無くなっていた。
「ねえ、トモ。来る時は連絡してって何度も言ったよね?」
「あーゴメン忘れた。でも、どうせ帰るだけだろ?」
 これっぽっちも悪いと思っていないらしいトモは、口先だけで適当に謝った。
 更にイライラが募る。これまで何度も困ると言ったのに、トモは改めようとすらしない。万事、自分の都合の良いように解釈して、他人の事などお構いなしだった。
「今日はまだ帰らないよ。これから部の人と飲み会だから」
「えっ、そんな事言ってた?」
 夕べ寝る前に電話した時の事を言っているんだろう。私は驚く彼に首を振って見せた。
「急に決まったの。仕方ないでしょ」
「急にって……なら断れば良いんじゃねーの」
 自分本位なトモの言葉に、一層、苛立ちが膨らんだ。
 まだ学生の彼には、この先何十年と一緒に居るかも知れない職場の人間関係や、付き合い、しがらみというものが理解できないらしい。
「そうもいかないの。トモには判らないだろうけど断ると面倒なのよ。とにかく、もう行かないといけないから。後で電話する」
「あ、チカっ」
 追いすがる声には振り返らずに、私は予約した店へ向かった。
 トモはまた自分の事を棚上げして、私が悪いと文句を言うだろう。
 歩きながらそっと溜息をつく。去年の誕生日に貰った右手のリングが、酷く邪魔に感じた。

 目覚ましよりも早く起きてしまった私は、ベッドに横になったままぼんやりと天井を見つめ、今まで見ていた夢の内容を反芻した。
 多分、嫌な思い出。でも今となっては、そんな事もあったというくらいの感情しか浮かばなかった。
 あの飲み会の後、大喧嘩になった。
 案の定、私だけを責めるトモに我慢しきれなくなり、ここぞとばかりに言い返した。興奮していたから、はっきり覚えてはいないけれど、年下である事にコンプレックスを抱いていた彼を嘲るような事まで言った気がする。
 結局、散々罵り合った私たちは「勝手にしろ」「もう知らない」と言葉をぶつけ、それっきりになった。
 子供だったんだと思う。トモも、私も。今だって、そうできた人間じゃないけど、もっと幼くて我侭だった。
 本当はトモと会う時間だって作ろうと思えばできた筈なのに、就職したのを言い訳にしておざなりにしていた。甘えたなところのあった彼は、自分が後回しにされている事に気付いていたんだろう。
 どうしてもっと大切にしなかったのか、優しく接する事ができなかったのか、冷静になって後悔した時には、もう遅かった。

 色々な理由をつけては、トモからの誘いを断り続けた3週間目の週末。ついに彼から電話がかかってきた。
 これまではメールでやりとりしていたから嘘もつき通せたけれど、直に話すのは気が引ける。ごまかしきれる自信も無いし、何より彼の声を聞くのが辛かった。
 受けるかどうか迷っているうちにコールが止んだ。大人しくなった携帯を見つめた私は、短く息を吐いた。
 早々に諦めてくれて良かったと思うのと同時に、何かとても大切な事を忘れているような焦燥感が胸に広がった。
 でも、何を?
 判らない。形のはっきりしないもやのような不安が、心にわだかまっていた。
 落ち着かない気持ちに、しばらくぼんやりしていた私は、来客を告げるチャイムの音に顔を上げた。
 もともと狭い人付き合いしかできない私には、家を行き来するような友達が少ない。宅配便か、何かの勧誘だろうかと思っていると、また携帯が鳴り出した。
「え……?」
 手の中の携帯とドアを交互に見る。どういう事かとうろたえる私を急かすように、ドアをノックする音が響いた。
「開けて、チカ。いるんだろう?」
「トモ!?」
 くぐもってはいるけれど間違いようのない声に驚いた。
 再会してからうちの住所を教えた事は無いし、家の場所を覚えていたとも思えない。どうして今ここに彼がいるのか、全く判らなかった。
 割と新しいとはいえ所詮は単身者用のワンルーム。今の私の声も、鳴り続けている携帯の呼び出し音も、ドアのすぐ外にいる彼には聞こえた筈だ。案の定、私が部屋に居ると確信したらしいトモは、名前を呼びながらドアを叩き始めた。
「チカ、チカ。開けて。頼むから」
 無視した事を怒っているというよりは、切羽詰ったような焦りの声が響く。
 近所迷惑だから止めさせるつもりもあったけれど、普通じゃない彼の様子が心配で私はドアを開けた。
「トモ、どうし……」
 カギを外した途端、思い切りドアが引き開けられる。余りの勢いによろけた私は、危ないと文句を言う間も無く唐突に抱きすくめられた。
「チカ。良かった……もう会えないと思った」
 トモの胸に覆われた視界の中で、巻きつく腕の感触にぽかんとした。
「ごめん。チカ、ごめんね」
「え?」
 突然謝られ、更に混乱した。
 連絡のつかなくなった私を心配して、会いに来てくれたらしい事は理解できる。でも、直接会わない期間があっただけで、メールのやり取りはしていたのだし、病気や怪我をしたという嘘をついた訳でもない。それに謝らなければならないのは、避け続けた私の方だと思う。
 会わない間に何かあったのか聞こうとした私は、外から丸見えな事に気付いてハッとした。見られて困る事も無いけど、さすがに恥ずかしい。
「あ、とにかく入って。何だか判らないけど、ちゃんと聞くから……」
「うん。ごめん」
 何に対してのものか判らない謝罪をもう一度口にしたトモは、脱いだ靴をきちんと揃えてから部屋に入った。
 過去、何度と無く、脱ぎ散らかした靴を並べるよう注意した事を思い出す。
 お茶を淹れる為にシンクに向かった私は、気付かれないように息を吐いた。よく知っている昔のトモと、変わってしまった今の彼。以前は感じる事の無かった妙な緊張感が身を包んでいた。

 少し温めの紅茶を差し出すと、トモは俯いたままお礼を言った。
 猫舌で渋いのが好きではない彼に合わせた薄いお茶。性格が変わってしまっても味覚は変化しないのか、一口飲んで「美味しい」と呟いた。
「ねえ、私の家の場所、覚えてたの?」
 トモの挙動不審の理由は判らないけれど、とりあえず気になった事を聞いてみる。
 一瞬、何の事か判らないという風にぽかんとした彼は、何度か瞬きをした後、難しい顔で視線を彷徨わせた。
「あ、いや。知らない、けど夢中で走っていたら、ここに来てた」
「ふうん」
 無意識なだけで覚えているという事なんだろうか。不思議なものだと変に感心してしまった。
 まじまじと見つめると、トモはまた項垂れ謝罪した。
「チカ、本当にすまない。ごめん」
「さっきから何度も謝られてるけど、はっきり言って理由が判らないの。私、別に困ってないし。最近、何かあった?」
 再会してからというもの、トモが私に迷惑をかけた事なんて一度も無い。いつも礼儀正しくて紳士的だった。
 何か勘違いさせるようなメールでも送っただろうかと文面を思い返していると、彼は思い切り首を横に振った。
「違う、最近じゃない。僕が事故に遭う前、君に酷い事をしたんだろう?」
「えっ」
 ぎくりと身体が強張る。
 私が元彼女である事実に気付いてしまったのかも知れない。すうっと胃の辺りが冷たくなった。
「あ……思い、出したの?」
 つかえながら、やっとの事で聞き返す。
 トモは私の予想に反して、また首を振った。
「思い出した訳じゃないけど前から知ってた。事故に遭ったあと意識が朦朧としてる時、僕は、うわ言でチカに謝り続けていたらしい。救急隊の人と看護士さんがそう言ってた。でも次に気がついた時にはチカの事も、何をしたのかも覚えて無くて」
 想像もしていなかった事実に驚き、目を見開いた。
 あんなに大喧嘩して罵り合ったのに、それでもトモは事故の時、私の名前を呼んでくれていた……?
「だから、ずっと君を探していた。会って謝ろうと思っていたんだ。でも実際に会えたら何も言えなくて。思い出させて嫌われるのが怖かった」
「それなら、どうして急に」
 正しいかどうかはさておき、何も知らないふりを続ける事もできたはずだ。
 私の問いかけに顔を上げたトモは、じっとこちらを見つめた。
「最近ずっと会えなくて、メールしてもそっけなくて、避けられてるんじゃないかって思った。そうしたら不安になった。もう会えないかも知れないって」
 実際、会わないようにしていた私は、心苦しい思いを隠して頷いた。
「僕が何をしたのかは判らない。でもチカはそれを責めないでいてくれた。これまでは自分勝手に思い出させない方が良いだろうと考えていたけど、もし君がずっと我慢して付き合ってくれていたのだとしたら、きちんと謝らなきゃいけないと思ったんだ……それから、この先も会いたいって伝えたくて……」
 完全に自分だけが悪いと思ってしまっているらしいトモは、最後の部分を言いづらそうにぼそぼそと呟いた。
 本当は全然違うのに。私にだって非はあったのに……。
 それでも、あんなに我侭だった彼が謝ろうとしてくれていた事に涙がこぼれた。
「チ、チカ?!」
 急に泣き出した私に驚いたトモが声を上げる。
 おろおろしている彼に「大丈夫」と伝える為に首を振って見せた。
「ごめんね、違うの。トモだけが悪いんじゃないんだよ。私も悪かったの」
「え?」
 しゃくり上げそうになるのを我慢しながら、ぽつぽつと当時の事を話した。トモがした事に対する私の考えと、行動、そしてその結果を。自分でも振り返るのをためらうような醜い感情も全て言葉にした。
 涙混じりの鼻声で語った思い出は相当聞きにくかったと思う。それでもトモは黙って最後まで聞いてくれた。終わる頃には見かねたらしい彼の腕に抱き締められていた。
 私を包む優しい温もり。あの時の私は、どうしてこの幸せを忘れてしまったんだろう。
「トモ、ごめんね。優しくしてあげられなくて……」
 触れる腕から伝わる振動で、トモが首を振った事に気付いた。
「もういいよ。誰も悪くない。少しすれ違っただけなんだ、きっと」
 そうなのだろうか。
 おずおずと顔を上げると、間近の彼は優しく微笑んでいた。
「一度離れてしまったし、事故のせいで回り道もしたけど、僕は今こうして君と一緒にいられる事が嬉しい。それじゃダメかな?」
 私たちが別れた顛末を知ってなお、彼は一緒にいたいと言ってくれる。その想いは、新しい一歩を踏み出す事に戸惑う私の背中を押してくれた。
「ううん、私も嬉しい」
 泣き笑いみたいな顔を向けると、目を合わせたトモがパッと赤面した。今更、恥ずかしくなったらしい。
 何だか可愛くて、思わず笑ってしまった。
 お互いの現状が以前と違いすぎる事は判っている。それでも彼が望んでくれるのなら、やり直したいと思った。
「トモ……」
 口を開きかけた私は決意を言葉にする前に、ぐっと引き寄せられた。
「ねえ、チカの事、好きって言ってもいい……?」
 どこか辛そうな声音に、抑えきれない不安を感じる。一度はおさまった涙がまた浮き、目尻を濡らした。
「うん……うん……」
 伸ばした手で精一杯、抱き締め返した。彼の胸に額を押し付けて何度も何度も頷く。
 この先、トモの記憶が戻るのかは判らない。違う性格の彼に困惑する事も沢山あるだろう。あるいは過去と今を無意識に比べ、彼を傷つけてしまうかも知れない。
 余りにも不安定な私たち。でも、もう一度だけ頑張ってみたかった。
 後悔し続けた日々を、希望に変えて……。

                                         End
   

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