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 終わらない恋の続き

  前編

 1時間だけ残業をした帰り道。いつも使っている地下鉄のホームを歩いていた私は、反対側からやって来た人の肩とぶつかってしまった。
 あ……、と驚いて顔を上げるより早く、相手は「すみません」と声を掛け通り過ぎた。
 オフィス街の端にある小さな駅だからホームも狭くて、朝夕のラッシュ時ならよくある事。どちらが悪いという訳じゃない。しかし返事ができなかった事に僅かな罪悪感を覚えた私は、遠ざかっていく背中を見やった。
 服装からすると、まだ若いカップル。学生だろうか。ふたりは混んでいるホームで身を寄せ合うようにして出口へと向かっていた。
 階段を上りながら彼女の方が笑顔で何か話しかけ、振り向いた彼が優しく微笑んで頷いた。
 可愛らしいふたりを見送った私は、ハッと我に返り俯く。見ず知らずの人たちをじっと見つめるなんて失礼だし、はたからすれば相当変な奴だ。
 そうっと周りを確認した私は、気付いている人がいない事にほっと息を吐いた。
 もう一度、階段の方を見る。当たり前だけどふたりはもう行ってしまって、無機質なコンクリートを背景に会社員風の人たちが上り下りしているだけだった。
 ふっと去来する思い出。2年と少し前、私も同じように彼と手を繋いで、この駅を使っていた。
 ……あの時は、別れるなんて思ってもいなかったのにな。
 右手の薬指をそっと撫でた。そこにあったはずのリングは、もう無い。外してから2年も経つのにまだ慣れないなんて、と自分で可笑しくなった。
 ざわついたホームに電車が到着するというアナウンスが流れる。意味も無く時計を確認した私は、こめかみの辺りに視線を感じて顔を上げた。
 さっきの階段の脇、少しだけ驚いた顔でこちらを見つめるスーツ姿の男性。人ごみの中でもはっきりと区別できるほど見知った彼に、私は息を詰めた。
「トモ……」
 思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 なんで。どうして。今更……。
 次々と浮かぶ疑問に私は混乱し、ただその場に立ち尽くしていた。

 まるで時が止まったみたいに固まっていた私は、静かに歩いてくるトモから眼を離せずにいた。
 呆然としているうちに乗るはずだった電車は行き過ぎ、そこから降りた人たちも散り散りに出口へ消えた。次の電車が来るまでの、閑散とした時間。
 ゆっくりと近づいて私の前で足を止めたトモは、思い出の中よりも穏やかな表情で笑った。
 時間の経過という理由では説明できない違和感を感じる。私の知っている彼はこんなに落ち着いていなかった。良くも悪くも子供っぽくて、真っ直ぐな人。
 結果的に揉めて別れた私を恨んでいるだろうと思っていたのに……。
「トモ、なの?」
 余りに変わってしまった彼の態度に、思わず尋ねてしまった。
 昔のトモなら「バカだなぁ」って笑うか「当たり前だろ」って拗ねるところなのに、目の前の彼は眉尻を下げ気の抜けた苦笑いを見せた。
「良かった」
「え?」
「以前の僕を知っている方、ですよね?」
「……トモ?」
 言葉の意味が判らない。繋がらない会話にぱちぱちと瞳を瞬いた。
 ぽかんとしている私に向かってトモはまた緩く笑うと、物悲しい表情で視線を逸らし「久しぶり、なんでしょうね」と呟いた。

「記憶喪失?」
 駅のすぐ脇にある喫茶店でトモを向かいにした私は、耳慣れない言葉にぎょっとした。
「はい。2年くらい前に事故に遭いまして。その時に脳を傷めたらしく、それ以前の記憶が曖昧なんです」
「……」
 何度も同じ話をしているのか、さらりと語られた内容に喉が詰まる。トモ自身は仕方ないとしても、共通の友人とも全く連絡を取っていなかったせいで、何も知らなかった。
 私と別れた後、そんな事があったなんて……。
「もう、傷はいいの? 大丈夫?」
 目の前の彼は至って健康そうに見えるけれど、脳の損傷なんて尋常じゃない。
 ケンカ別れした元カノだという事を忘れ、おせっかいにもつい心配してしまった。
「ええ。記憶以外は大した事ありません。軽いムチウチと、後頭部が少しハゲちゃったくらいで」
 冗談混じりの言い方に、ふざける事が大好きだった昔のトモを思い出して少しほっとした。
「良かった……て、良くないか。ハゲるのは深刻な問題よね」
 女の人なら長い髪でごまかせるけど、男の人は色々大変かも知れない……なんて考えていると、トモが突然、笑い出した。
「ふふっ……いや、すみません。何か面白い方だなーと思って……えーと……?」
「チカ。春川知花(はるかわ ちか)って言うの」
 軽いデジャヴ。
 確か初めて会った時も彼は笑っていて、同じように自己紹介をした。

『アンタ面白いなあ。周りから変わってるって言われない?』
『名前教えてよ。俺は貴田智哉(たかだ ともや)、皆からはトモって呼ばれてる』
『ふーん、綺麗な名前。チカって呼んでいい?』

「チカ……君が……」
「えっ」
 少しの間、思い出に浸っていた私は、かけられた声に気付いて顔を上げた。
 何故か驚いた表情をしていたトモは、まじまじと私の顔を見つめ目を細めると、ゆっくり首を振った。
「いえ、何でも……」
「あ、うん。ならいいけど」
 私と会ったせいで何かを思い出しかけたのかも知れない。
 やんわり胃が重くなる。もう過ぎた事なのに、いがみ合って別れた関係だと知られるのが辛かった。
「あの、もし面倒で無ければ、また友達として付き合って頂けないでしょうか?」
「……」
 すがりつくように目を向けられた私は、僅かに躊躇した。
 何も知らないトモに他意は無いと判っているけど、全てを覚えている私にとっては複雑だ。元恋人だという事を隠して友達になるのも心苦しい。
 良いとも嫌だとも言えない私に向かって、彼は申し訳なさそうに言葉を重ねた。
「できれば以前の僕の事を教えて貰いたいんです。子供の頃の事は思い出したんですけど、大学に入った辺りから判らなくて」
 ドラマなんかに出てくる記憶喪失は、何かの拍子に全部思い出したりするから、そういうものなのだと思っていた。でも実際はもっともっと難しいものらしい。
 余り見た事が無かった、トモの不安げな表情。
 安っぽい同情だって自分でも判っていたけど、彼のために何かしてあげたいと思った。
「いいよ。こうやってたまに会おう?」
 断られると思っていたのか、驚いたトモがパッと顔を上げ、心底嬉しそうに笑った。
「あ、ありがとうございますっ」
 大げさな彼に苦笑する。
「お礼なんて言わなくていいよ。ただの友達なんだし」
 ……そう、ただの友達。出会った直後に戻れば良いだけの事。
「あと敬語も止めて。友達なのに敬語なんて変でしょ?」
「んー、うん。判った」
 すっきりした笑顔のトモとは対照的な、後ろめたい私。
 素直な気持ちで助けてあげたいと思うのに、全てを知られてしまった時の彼の反応を考えると憂鬱だった。

 あの日、駅で偶然会うまで気付いていなかったのだけど、トモは私の職場近くの企業で働いていた。会社が近いという事は、それだけ都合を付けやすい。結果、私たちは割と頻繁に会うようになった。
 地下鉄の駅前の居酒屋。狭いテーブルでトモと向かい合った私は、隅に広げた写真を指差した。
「これが、大学のサークルで旅行行った時の写真。ほら、こっちが私で、ここにトモがいる」
 不思議そうな顔をした彼は珍しいものでも見るように、まじまじと過去の自分を眺めた。
 今から5年前。大学に入りたてのトモと、3回生だった私。この頃はまだ友達……というより、単なる先輩後輩だった。
 まあ、傍若無人なトモは全然、後輩らしくなかったけど。
「……僕とチカは、サークルで知り合ったの?」
「ううん。大学の構内だけど別の所で会って、その後、トモが私のいるサークルに入ったのよ」
「へえ。仲良かったんだね」
「うん……そうね」
 くったくの無い彼の言葉に、胸が痛む。
 彼女になって欲しいって言われた時、トモは最初から私を好きだったと言った。だから同じサークルに入ったのだと。
 至って普通で、とりたてて美人でも、性格が良いわけでも無い私のどこを気に入ったのかは、未だに謎だけど。
「ね。初めて会った時の事を聞かせてよ」
 ぐっと身を乗り出したトモが眼を輝かせる。
 期待の篭もった眼差しを避ける為に俯いた私は、一つ溜息をついて思い出の蓋をそっと開けた。

 朝イチの講義を終えた私は、おやつ片手に目的の場所へ辿り着くと、人目が無いのを良い事に思い切り伸びをした。
 90分ずっと座っていたせいで凝った背骨が、パキパキと鳴る。気のせいかも知れないけど、熱の篭もっていた背筋がすうっと冷えた。
「あー、疲れた」
 ひとりごちて地面に座り込む。少し伸びた芝が気持ち良かった。
 次の講義まで2時間とちょっと。おやつを食べながら、ここでゴロゴロするのが最近の時間の潰し方だった。
 何とか無事に大学の3回生へと進級した春。元々がテキトーな私は余り深く考えずに興味本位だけで授業を選択した。
 できあがったのはやたらと空き時間の多い、凄く中途半端な時間割。
 よく確認しないまま慌てて提出したせいで今更変更もできず、結局、1年間それで通すしか無くなってしまった。
 その中でも水曜は仲の良い友達が全員いないという、一番いただけない日。
 最初のうちは学内のカフェテラスで過ごしたりしていたのだけど、人ごみが余り得意で無いせいか落ち着かない。先月、偶然この場所を見つけてからは、毎週ここに来ていた。
 東校舎と西校舎の間、3階に渡された廊下の真下。こだわりなのか何なのか、1階と2階は繋がっていないせいで狭い空間ができていた。
 狭いと言っても南側は開けているし、陽も入る。余り手入れはされてないようだけど芝も敷いてあって、特別にしつらえた秘密の場所のようだった。
 初夏の熱を孕んだ風が校舎の間を抜けていく。温いけれど、耐えられないほどじゃない。常に空調の入っている教室から出たばかりの私には、むしろ心地良かった。
 石が無いのをざっと確認して、ごろんと寝転がる。校舎の壁に切り取られた空が、やけに青く見えた。
 耳のすぐ横に咲いていた背の高いタンポポに、なんとなく眼を向けた。昔々、小学校の授業でセイヨウタンポポと、カントウタンポポのがくの違いを学んだ事を思い出す。
 開いているのがセイヨウで、閉じてるのがカントウだっけ?
 花も葉もほとんど同じに見えるのに、種類が違うなんて面白い。
 茎の先についた大きな花を指で揺らしていると、ふいに陽が陰った。驚いて見上げた先には、同じように目を見開いた男性が立っていた。
「……」
 何も言えずに呆然と見つめる私に構わず、彼は辺りをきょろきょろと見回した。
「びっくりした。こんなとこに人いると思わなかった……何してんの?」
 私と同年代に見えるから、ここの生徒なんだろう。色抜き過ぎな薄茶の髪。英字のロゴTシャツに、カーゴパンツ。それと裸足にサンダル履き。格好からしても、やけに馴れ馴れしい態度を見ても、苦手なタイプだと思った。
「……タンポポを見てた」
「タンポポ?」
 嘘をついてまで隠す事でもないから素直に言うと、彼は知らない言語を聞いたみたいにきょとんとした。
「えーと、生物学部の人?」
「違うけど」
「じゃ、何でこんなとこでタンポポ観察?」
「何でって……何となく……」
 言ってしまってから「暇つぶし」と答えた方が正しいような気がしてきた私は、彼が突然、笑い出した事に驚いた。
 そのまましばらく笑い続けた彼は、やがて校舎の壁に手をつき、ぜいぜいと苦しそうに呼吸をした。
 そんなに可笑しな事を言っただろうか。いや、そもそも見ず知らずの人間を捕まえて笑うなんて失礼極まりない。
 私がムッとして冷ややかな視線を向けている事など全く気付いていないらしい彼は、臆面も無く笑顔を作った。
「アンタ面白いなあ。周りから変わってるって言われない?」
「は?」
 何をいきなり言い出すのかと、目を剥く。
 気付いていないというより、私の様子を気にしていない彼は、答えを待たずに自己紹介を始めた。
「名前教えてよ。俺は貴田智哉(たかだ ともや)、皆からはトモって呼ばれてる」
「え……」
 はっきり言って、こんな軽そうな人に教えたくない。
 名前を教えたせいで何か問題が起きるとまでは考えて無いけど、彼に知り合いだと認識されるのが嫌だった。
 言い渋っているのに気付いたらしい彼は、これ見よがしに意地悪い笑顔を浮かべた。
「どーせ、ここの学生なんでしょ。顔はばっちり覚えたから、追い掛け回して調べても良いけど?」
 しれっと薄気味悪い事を言われ、青褪める。
「止めてよ! ……春川知花。これでいいでしょ」
「うん。漢字は?」
 全く悪びれずに聞いてくる態度に溜息をついた私は、しぶしぶ書き方を教えた。
「ふーん、綺麗な名前。チカって呼んでいい?」
「ダメって言っても、勝手に呼ぶ気なんじゃないの?」
 呆れと嫌味を混ぜて投げつける。どうせ気付かないだろうと予想していた私は、彼がパッと顔を輝かせた事に慄いた。
「おー、正解。俺たち実は凄い気が合うんじゃない。超お似合いだったりして」
 私の想像を遥かに超えた反応を見せた彼が、嬉しそうに笑う。
 ……ありえないから。
 人生史上最高の面倒くさい奴に絡まれた私は、もう一度、盛大に溜息をついた。

 後から考えれば、人付き合いに消極的だった私には、トモくらい強引な方が合っていたのだろう。鬱陶しいと思っていた存在は次第に居て当たり前になり、居ないのを物足りないと感じるまでになった。
 あの校舎の隙間で出会ってから4ヵ月後、私たちの関係は恋人に変わった。

   

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