猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢 土曜日のお客様 前編 朝食に出されたトーストとサラダを食べ終えた私は、コーヒーのおかわりを啓也に尋ねられ、うなずいた。少しして渡された温かいマグカップを両手で包み込んで、ほうっと息を吐く。 「どうしたの?」 私とお揃いのマグカップを手にして隣に座った啓也が、不思議そうな顔をする。大丈夫と首を横に振ってみせた。 「ちょっとだけ、変な感じがして。いつもなら、もう行かなきゃって慌ててる時間だから」 先日の私の誕生日。彼と話し合い、本格的に結婚へと踏み出した私は、仕事を短時間勤務に変更した。 うちの会社には、結婚をした女子社員はパートタイマーになるという暗黙の了解みたいなものがある。といっても厳密にはまだ籍を入れていないし、急ぐこともなかったのだけど、社長の縁故ですぐに代わりの社員が見つかったこともあって、今週から土日休みの平日五時間勤務になった。 当然、全ての事情を知っている啓也は、納得したように大きくうなずいた。 「ああ。なるほど」 「うん……」 コーヒーを一口飲んで、少しぼんやりとする。今まで週末に休むことが少なかったから、こんなふうに土曜の朝にのんびりしているなんて、なんだか信じられない。 溜息をついて呆けていると、こめかみにそっと啓也の唇が触れた。 「後悔してる?」 「え?」 なんの話かわからずにパッと彼の方を振り向く。私の視線を受け止めた啓也は、淡い苦笑いを浮かべていた。 「仕事より、結婚を選んだこと」 意外な質問に遭い、ぱちぱちとまばたきをする。仕事と結婚の両立ができないのは会社の事情だし、きちんと考えて納得したうえで私が決断したことだから、後悔はしていない。ただ慣れないだけで…… 私に仕事を諦めさせたことを気にしているらしい彼に、笑顔を向け、また頭を振ってみせた。 「まさか。ただ、ちょっと不思議な感じがするだけ。これから毎週、休みが一緒なのは嬉しいし……その、啓也の奥さんになるんだなって思ったら、ドキドキするし」 つい、最後の方が小声になってしまう。まだ「奥さん」という立場と呼び名が気恥ずかしい。マグカップの中を覗くふりをして、赤くなっているはずの顔を隠した。 ごく自然に、啓也が私の肩を抱く。引き寄せられる力に従い、彼に身体を寄りかからせた。 「……俺も。嬉しいし、待ち遠しい」 独り言のような彼の小さなささやきに、うなずく。 もう一緒に暮らしているし、籍を入れたところで二人の生活が大きく変わることはないんだろう。それでも、私たちの関係が戸籍という目に見える形になるのかと思うと、胸が高鳴った。 「汐里」 啓也の声に導かれ、顔を上げる。キスの予感にそっと目を閉じた。体温が伝わってくるほど近づいたお互いの気配、唇に感じる彼の吐息…… 私たちの距離がゼロになる直前、インターフォンが来客を告げた。 響くチャイムに驚いて、パチッと目を開ける。眉間に皺を寄せた啓也が、インターフォンのディスプレイを睨みつけた。 「誰だよ。こんな朝早くから」 根拠はないけど、妙に気持ちがそわそわする。何か大変なことが起きそうな…… 寄り添い呆然とする私たちに「早く出ろ」とでも言うように、もう一度、チャイムが鳴った。 あからさまにだるそうな表情を浮かべてインターフォンを繋いだ啓也は、訪ねてきた人と言葉を交わすなり慌て出した。 「わかったから、ちょっと待て」とか「とにかく、そこを動くな」とか不穏な言葉が聞こえてくる。ただごとではなさそうな雰囲気に蒼褪め、身動きできずにいると、彼が振り返り、肩を落とした。 「汐里、ごめん。なんでかわからないけど、マサとシュウがきた」 「え?」 いきなり知らない呼称を出され、目をまたたかせる。私が理解していないことに気づいたらしい啓也は、自分の顎に指を当て、首をひねった。 「あれ、汐里は会ったことがなかったかな。兄貴の子供で、真人(まさと)と秀哉(しゅうや)だよ」 「じゃあ、お兄さんと真奈さんの?」 私の質問に、啓也がうなずく。 彼と一緒に暮らし始める前、守崎家へ挨拶に伺った時は、どうしても外せない用事と重なってしまったとかで、お兄さんのご家族とは会えなかった。そのあとすぐに真奈さんの妊娠がわかり、彼女の体調を案じて訪問を遠慮しているうちに、会えずじまいになってしまっていた。 啓也やお母さんとの話の折に、お子さんが二人いることと、名前を何度か聞いてはいたけど、まだ小学生だと言っていたから、今、訪ねてきた人とすぐに繋がらなかった。 「うん。ちょっと状況がわからないんだけど、二人だけできたみたいなんだ」 「ええっ!」 どうやってここまできたのかは定かじゃないけど、子供たちだけでくるなんて大事だ。お兄さんのご家族は、守崎家の母屋を二世帯用に増築して暮らしているはずだから、こことは結構離れている。 びっくりして目を見開く私に、啓也が肩をすくめた。 「迷惑かけて、ごめん」 「そんなことはいいから、早く迎えに行ってあげて」 大きく頭を振り、玄関の方へ向かって彼の背中を押す。訪ねてきた理由がわからなくても、子供たちだけで外に放ってはおけない。 啓也はもう一度、短く「ごめん」と謝ってから、外へ駆けて行った。 ドアの閉まりきる音を聞いて、はあっと息を吐く。ただ遊びにきただけならいいけど、啓也曰く過保護だというお兄さんが、子供だけで出かけることを許可するとも思えない。もし黙って出てきたのなら、守崎家は大騒ぎになっているはずだ。 ……本当にどうなっているんだろう。 啓也を送り出した私は、不安な心をかかえたまま、その場にただ立ち尽くしていた。 連れてこられた真人くんと秀哉くんは、初めて訪れた場所と初対面の私に少しびっくりしていたけど、元々あまり人見知りをしないようで、おもてなしに出したオレンジジュースを飲み終わる頃には笑顔を見せてくれるようになった。 啓也が寝室でお兄さんへ電話をかけている間に、自己紹介がてら二人の年齢を訊いてみると、真人くんが十歳、秀哉くんが八歳だと教えてくれた。 真人くんは黒い髪と瞳が印象的で、意思の強そうなキリッとした顔立ちをしている。ここで暮らし始めた時に啓也のアルバムで見た、中学生の頃の真奈さんによく似ていた。 対して、秀哉くんは淡い茶色のくせ毛で、色白。歳相応のあどけなく可愛らしい顔をしていた。色素が薄いところや、ゆるいくせのある髪が、啓也と一緒で少しだけドキッとする。啓也のお兄さんに直接会ったことがないから、似ているのかはわからないけど、守崎家の方の遺伝なんだろう。 ジュースをおかわりした秀哉くんが、服の袖で口元を拭い、不思議そうに私を見つめてくる。私は微笑んで、首をかしげてみせた。 「どうしたの?」 「お姉ちゃんは、ヒロ兄の友達?」 「あ、ええと……」 無邪気な質問に、どう答えていいか迷う。友達とは違うけど、八歳の子には恋人や婚約者と言ってもわからないかもしれない。 とりあえず友達ということにしておこうと、うなずきかけた私の肩に、後ろから何かが触れる。驚いて振り返れば、寝室から戻った啓也が肩を抱いていた。 「違うよ。このお姉さんは、俺のお嫁さん」 「啓也」 お嫁さんだと言われて、顔がかあっと熱くなる。 きょとんとした秀哉くんは、真人くんに向かって「お嫁さんって、らぶらぶの人?」と訊いた。真人くんは照れることもなく、冷静に「そう」とうなずいている。どうやら真人くんは実際の年齢よりもずっと大人びた子らしい。 啓也は私の肩から手を離すと、カウンターテーブルの脇へ移動して身を屈める。スツールに座る真人くんに目線を合わせ、ニコッと笑顔を浮かべた。 「マサ、お父さんが心配してたぞ。どうして黙って出てきたんだ?」 「それは……」 少しうつむいた真人くんが唇を噛む。突然、真人くんの奥に座っていた秀哉くんがスツールを降りて、啓也と真人くんの間に割り込んだ。 「違う! お兄ちゃんは悪くないよ。僕のせい。僕が遊園地に行きたいって言ったから」 僅かに目を瞠った啓也は、秀哉くんにも笑みを向けた。 「大丈夫だよ、シュウ。俺は怒っているわけじゃない。二人だけで遊園地に行こうとしたのか?」 啓也の問いかけに、うつむいたままの真人くんがぽつりぽつりとこれまでのことを説明し始めた。 「本当は、先月の秀哉の誕生日に皆で遊園地に行く約束をしてて、でもお母さんの調子が良くなくて行けなかったんだ」 「うん」 「それで、その代わりに今日、遊園地に行こうって約束をしてたんだけど、またお母さんの身体の具合が悪くて。だから俺が連れて行こうと思って」 「そうか」 穏やかにあいづちを打ちながら、啓也は真人くんの頭を撫でる。傍らの秀哉くんがキッと顔を上げた。 「お父さんが悪いんだよ! お母さんはお婆ちゃんと一緒に家で寝てるから、行ってきていいよって言ってたのに、お父さんが急に行くの止めるって言ってさ。お父さんは、お母さんと赤ちゃんだけが大事なんだよ。どうせ僕とお兄ちゃんのことなんて……」 その先に続く言葉を遮るように、啓也は秀哉くんの頭もぐりぐりと撫でる。 「わかった、わかった。そんなに興奮しなくても、ちゃんと聞くから。な?」 啓也が苦笑いして肩をすくめると、真人くんがますますうなだれた。 「ヒロ兄、ごめん。遊園地に行こうと思って家を出たんだけど、途中でどの電車に乗るのかわからなくなっちゃって。駅の外にいたタクシーの人に聞いたら、家に帰るよりもここの方が近いって言われて、その人に乗せてきてもらったんだ。あ、ちゃんとお金は払ったよ」 真人くんの説明に、啓也は一瞬、意外そうな顔をしたものの、大きくうなずいた。 「なるほどね。お前たちだけでここにきた理由はわかったよ。でも、どうするかな……家に帰るか?」 啓也の言葉を聞いた二人は、同時にサッと表情を強張らせる。勝手に出てきてしまった手前、すぐには帰りづらいんだろう。 もちろん、どんな理由があったとしても両親に黙って家を出てくるのは危険だし、やってはいけないことだ。でも、二人がそこまで追い詰められていると思えば胸が痛む。 同時に、年上だからという理由で菜摘ちゃんのわがままに振りまわされ、何度となく我慢を強いられた子供の頃の記憶が蘇った。 私はわざとらしく、ポンと手を打つ。三人の視線がこちらに集中した。 「あ! ねえ、啓也。お兄さんは手が離せなくて忙しいんでしょう? 真奈さんも休んだ方がいいみたいだし、それなら急いで帰らなくてもいいんじゃない?」 秀哉くんの話を信じるならば、お兄さんは真奈さんを心配しているだけで、忙しいのとは少し違うけど、子供たちの前でそれをはっきり言うのははばかられる。私の微妙な言い方に気づいているらしい啓也は、呆れ混じりの薄ら笑いを浮かべてうなずいた。 「ああ。ちゃんと連絡しておけば、大丈夫だと思うよ」 「じゃあ、皆で遊園地に行かない? せっかくの土曜日だもの、家にいるだけなんて勿体ないし」 私を見つめる瞳が見開かれる。三者三様のまんまるな目を見た私は、思わず吹き出してしまった。 「そんなに驚かなくても。あ、でも、お弁当はなしね。今から作っていたら、出かけるのが遅くなってしまうし。それでも良ければだけど……どうかな?」 首をかしげてみせると、秀哉くんが元気よくピョンと飛び跳ねた。 「行く!」 秀哉くんの隣に座る真人くんが、そわそわしながら私と啓也を交互に見比べている。きっと遠慮しているんだろう。 「……いいの? ヒロ兄」 「俺は彼女とお前たちがいいって言うなら、かまわないよ」 曲げていた背中を戻した啓也が明るく微笑む。私はもう一度、パチンと手を叩いた。 「それじゃ、決まり! 今日は目一杯、楽しんじゃおう」 私の宣言を聞いた真人くんと秀哉くんの瞳が、急に輝き出す。期待の篭もった二人のまなざしを受け止めた私は、思いきり笑ってみせた。 → 後編 |