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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  何もしない特別な日

前編

 ――――ねえ、今度の汐里の誕生日に二日間休みを取れない?
 と、啓也に訊かれたのは先月のこと。また何かサプライズを考えているのかと思って質問を返せば、温泉にでも行って骨休めをしようと誘われた。
 啓也と温泉の取り合わせに正直、嫌な予感がしたけれど、しばらく泊りがけで出かけていなかったし、なんといっても私の誕生日だ。もし彼がいつもみたいに無茶をしようとしたら、誕生日をタテに私の希望を通せばいいと考えた。
 そして誕生日当日の今日。少し遅めに起きた私たちは、途中でお昼を食べたりしながら温泉旅館へとやってきた。

 歴史ある温泉街の一番奥、山の裾野に建つ宿を見上げ、私はほうっと息を吐いた。
 しっくいの壁に瓦屋根が乗せられた門は、旅館というより昔の商家のよう。奥には落ち着いた趣(おもむき)の日本庭園が広がり、門から続く石畳の先には平屋造りの建物が見えた。
 門と庭は日本の伝統的なスタイルだけど、建物はシックな和モダンになっている。どことなく懐かしさを感じながら進むと、先を行く啓也がくるりと振り返った。
 少し驚いて見上げた先には優しい微笑み。きょとんとする私に向けて、彼はピッと人差し指を立てた。
「宿に入る前に、一つだけ約束してほしいことがあるんだ」
「え?」
「汐里は今日、何もしないでのんびりすること」
 ……はい?
 なんの話かさっぱりわからず、ぱちぱちとまばたきをくり返す。私がぼんやりしているのに気づいたらしい彼は、また説明を始めた。
「汐里は温泉に入って美味しいものを食べて、ゆっくりするだけ。お茶を淹れたり、服を畳んだり、荷物を片づけたり、そういうことは禁止ね。俺が全部するから。わかった?」
「ええっ」
 告げられた命令に眉を寄せる。それって親切というより、横暴のような……
 啓也は前に向き直ると、唖然としたままの私を無視して宿の玄関をくぐった。
「あ、ちょっと待って」
 慌てて彼の後ろ姿を追いかける。引き戸を抜けた途端、宿の女将さんに迎えられた私は、嫌とも言えずに啓也の横顔を見つめるしかできなかった。

 啓也が見つけてくれたこの宿は、露天風呂付きの離れが売りらしい。本館にあるのは大浴場と団体用の客室、大広間のみで、あとは全て離れになっているのだとか。大きくはないけどプライベートな空間を重視した大人の宿だと、入り口でもらったパンフレットに書いてあった。
 西側の一番端にある離れへ通された私は、思わず目を瞠った。
 本館と同じ和モダンの建物は、一軒の住宅のように見える。大正か昭和の初期にタイムスリップしてしまったのかも、なんて夢見がちな錯覚を起こしそうだった。
「……凄い。素敵」
 つい感嘆の声を上げると、隣の啓也がふっと微笑んだ。
 仲居さんから一通り設備の説明を受けたあと、室内を探検する。玄関にトイレ、内風呂。寝室らしき六畳ほどの日本間と洋間が一つずつ。それから庭に面した広い座敷があった。
 窓の向こうには縁台と露天風呂が見える。柔らかな春の日差しの中で、ゆらゆらと湯気を上げる温泉はとても気持ちがよさそう。
 じっと窓の外を見つめていると、後ろから啓也の声がかかった。
「入ってきたら?」
「あ……」
 一度振り向き彼を見てから、また外へ視線を送る。まだ日は高く、空は青いまま。
 多分タオルを巻いて入っちゃダメなんだろうし、そうなると座敷の窓から丸見えだ。裸を見られるのなんて今さらなのはわかっているけど、昼間の外でっていうのはやっぱりちょっと恥ずかしい。それに一緒に入るとか言われたら困る。啓也が自重できないのはわかりきっていた。
 別に絶対えっちしたくないというわけじゃなくて、せめて夜までは待ってほしかった。
 ……誕生日の切り札って、あらかじめ出しておくべきなのかな? 逆にギリギリまで隠すべき?
 窓ガラスを睨み、自分でもよくわからないことをぐるぐる考えていると、背後で小さく吹き出すのが聞こえた。
「俺はまだ入らないし、汐里が入ってる間、横になって休んでおくよ」
 狙いすましたようなセリフ。私の考えはすっかり読まれているらしい。なんだか悔しくて彼を軽く睨んだ。
 苦笑いを浮かべた啓也は、作りつけのクローゼットから浴衣を出してこちらにかざしてみせる。綺麗に畳まれた浴衣は三枚あって、それぞれ柄が異なっていた。
「汐里、どれにする? サービスでどれを着てもいいんだってさ。全部試してみてもいいし」
 彼の手に載せられた浴衣はどれも可愛い。慣れない贅沢にドキドキしながら一枚を選ぶと、啓也が着替え一式とタオルを出して渡してくれた。今日は私に何もさせないと言ったのは本気のようだ。
 たとえば仕事で疲れた時なんかに、何もしないでのんびりしてみたいと思うことはあったけど、実際にそうなってみると逆に落ち着かない。
 小さくお礼を言って浴衣を受け取った私は、啓也に笑顔を向けつつ、妙な気づまりを感じていた。

 離れと温泉が自慢の宿は、夕飯のお料理も素晴らしかった。
 お造りに、牛肉ときのこの鉄板焼き、春野菜の炊き合わせ。近所の養鶏場で採れた卵を使った茶碗蒸しと、岩魚の塩焼き。締めには地元産のお蕎麦が出てきた。
 沢山の美味しそうなお料理に目移りしながら、時間をかけていただく。一本だけ地酒を頼んで、啓也と分けて呑んだ。

 ほろ酔いにもならないくらいしか呑んでいないけれど、ぽかぽかする身体を冷ますために縁台へ出る。夏にはまだ遠く、空気は少しひんやりとしていてちょうどいい。目を閉じて頬を撫でる風を感じていると、すぐ後ろでサッシの開く音が聞こえた。
 振り向くよりも早く、背中がほんのりと温かくなる。お腹にまわされた手と耳にかかる吐息で、後ろから抱き締められたんだとわかった。
「ん……仲居さん、は?」
 私が外へ出る前、布団を敷くために仲居さんがきていた。邪魔にならないよう荷物をどかそうとしたのだけど、それすらも啓也に止められ、結局、何もできずに縁台でぼんやりするしかなかった。
「もう帰ったよ。ごゆっくりお休みくださいってさ」
「そう」
 彼に抱き締められたまま、重なるように座って夜空を見上げる。風はなく、露天風呂へお湯が流れ落ちる音しか聞こえない。真っ暗な空には限りなく円に近い月が輝いていた。
 ふと首に何か冷たいものが触れる。驚いて手を当てると細いチェーンが巻かれていた。
「え?」
 指先から伝わる感覚で、ネックレスだと気づく。首元だから見て確認することはできないけど、間違いない。
 慌てて振り向くと待ちかまえていたように頬へキスされた。
「誕生日おめでとう。汐里」
「啓也……」
 ぽかんとする私を覗き込んだ啓也は、不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの。プレゼント、別のが良かった?」
 ハッとして首を振る。プレゼントが不満なんじゃなくて……
「この旅行が、プレゼントだと思ってたから。別にあるなんて思ってなくて。びっくりしたっていうか」
 ぽつぽつと理由を告げる。一瞬きょとんとした彼は次の瞬間、思いきり破顔した。
「ははっ、汐里らしい。この旅行は、そうだなあ……強いていうなら日頃の感謝の印。で、このネックレスが今年のバースデープレゼントね」
「ま、またそんなにいっぱい」
 啓也が私のために色々と考えてくれるのは嬉しいけど、喜びよりも遠慮が先に立ってしまう。彼の愛情はいつも私が思うよりも大きくて、同じだけ返せないのが申し訳なくなる。
「嫌だった?」
 私の反応を見た啓也が不安そうな声を出す。そういう意味じゃないと表すため、私はもう一度首を振り微笑んだ。
「ううん、嬉しい。でも、こんなにしてもらっていいのかなって」
「汐里は本当に遠慮しいだなー。いつかも言ったけど、俺がしたくてしてるんだからいいの。汐里が受け取ってくれたら俺も嬉しいし」
 優しい彼の表情と言葉を前にして、じわじわと嬉しさがこみ上げる。彼の目を見て、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。ありがとう、啓也」
「いや。俺の方こそ受け取ってくれて、ありがとう」
 お互いにお礼を言い合っているのが、なんだかおかしくて、つい笑ってしまう。つられた啓也も笑い出した。
「ヘンなの」
「確かに。ねえ汐里、更にヘンなのはわかってるんだけど、もう一つ受け取ってほしい物があるんだ」
 笑みを浮かべたまま、彼は自分の浴衣の袂をごそごそと探り出す。少しして、首をひねる私の目の前に、小さくて薄い箱を取り出した。
 見た目は厚みのない指輪のケースのよう。その箱を、啓也は取り上げた私の手のひらに載せた。
「何?」
「開けてみて。ああ、返品は不可ね。クーリングオフとっくに切れてるから」
 彼のおどけたセリフに疑問を感じながら、おそるおそる箱を開ける。中に入っていたのは二つ折りのメッセージカード。それを取り上げると、下からシンプルなピアスが出てきた。
「えっ?」
 手の中の箱と彼を見比べる。どういうことかを訊く前に、啓也がカードを指差した。
「読んで」
 箱を一旦、縁台に置き、カードを開く。座敷から漏れる灯りにかざすと、そこには「Happy Birthday」の文字と去年の今日の日付が印字されていた。
「啓也、これ」
「うん。本当は去年の誕生日に贈ろうと思ってたやつ。結局、渡しそびれて一年遅れだけどね。遅くなって、ごめん」
「あ……」
 去年の今日。私の誕生日……
 当時の私は肩を怪我して自宅療養中だった。怪我の原因が自分にあると思い込んでいた啓也は、私のために連絡を絶ち、離れ離れの日々を過ごしていた。
 胸の奥がきゅうっと痛む。嬉しくて、当時を想えば切なくて。目を伏せると、浮いた涙の中でピアスが光を反射してキラキラと輝いている。震える唇を必死で動かして彼の名を呼んだ。
「啓也」
「ん?」
「好き。ありがとう……大好き」
 もっと上手に自分の気持ちを伝えられればいいのに、想いがあふれて他の言葉が出てこない。何度も好きだとくり返すと、なだめるように頭を撫でられた。
「俺も好きだよ」
 耳元から届く優しい言葉。深い愛情を感じて、瞳におさまりきらなくなった涙が一粒こぼれ落ちた。
 ふっと苦笑いした啓也は、私の手からカードを取り上げる。次に肩をつかんで、私の身体を回転させるように促した。
「こっち向いて」
 うなずいて、従う。彼の腕の中で向かい合うと、涙のあとを指先で拭ってくれた。
「汐里って意外に泣き虫だよね」
「そ、そんなこと、ないし」
 自分でも嘘っぽいと思うけど、恥ずかしすぎて素直には認められない。拗ねたふりをしてそっぽを向くと、クスクスと笑われた。
「気が強くて意地っ張りで、でも本当は真っ直ぐで優しいってこと、ちゃんとわかってるよ。汐里が生まれてきてくれて、今、俺の傍にいてくれて本当に嬉しい。ありがとう」
 啓也の言葉が耳に届いた瞬間、一度はおさまっていた涙がまたあふれ出た。流れる涙をそのままにして、彼をギリッと睨みつける。
「な、泣き虫なんじゃなくて、啓也が泣かせるようなことを言うからよっ」
 八つ当たり同然な私の言葉を受け止めた啓也は、ふわっと微笑んで、抱き締める腕の力を強くした。
「可愛い、汐里」
 すかさず重なる唇。優しい口付けが、意地を張る私の声も心も抑えてしまう。触れるだけのキスを何度かくり返して、彼はそっと唇を外した。
 離れていく彼を意外な気持ちで見つめる。いつもなら段々キスが深くなっていくのに……
 私がぼうっとしていることに気づいたらしい啓也は、困ったように眉尻を下げた。
「今日はこれでおしまい。のんびり休むだけっていうのも、たまにはいいでしょ?」
 昼間、宿に着いた時にさせられた約束が、パッと思い浮かぶ。それから、この旅行が日頃の感謝の印だというさっきの言葉も。
 彼の思いやりが心に沁みる。嬉しくて、幸せで、想いが抑えきれなくなった私は、身体をぶつけるようにして啓也にしがみついた。
「汐里?」
 少し意外そうな声に、首を振った。
「それだけじゃやだ。きょ、今日は誕生日なんだから、私の好きにするの!」
 顔を上げ、啓也を睨む。唖然としている彼に無理矢理キスをした。

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